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フ…
目がうっすらと開き、ぼやけた視界に病室の天井が映る。
「あっははは」と遠くからおばさんたちの笑い声が聞こえる。
え…と…
ここは…どこだっけ…
だんだんはっきりとしてくる視界。
無機質な風景が私の記憶をよびさます。
あぁ…そうか…
白いシーツのかかった掛け布団が顎にあたる。
ふと足元を見るとベッドの周りにひかれていたカーテンが開いている。
病室のドアが開いていて、廊下の向こうの部屋のドアも開け放たれている。
おばさんたちの笑い声はその部屋から聞こえてきているようだった。
あぁ…
もう帰らなければ…
何故かあんまり長居しては申し訳ないと思い、ベッドからフラフラと立ち上がる。
まだ頭がはっきりしない。
足元もおぼつかない。
でもここに長く居てはきっと迷惑だ。
早くここから出ないと。
私は着てきていた洋服をバックから取り出し、病衣を脱いで着替え始めた。
フラフラする。
股の間に大きな脱脂綿のようなものがあてがわれている。
これはどうしたらいいんだろう?
とりあえずこのままで下着を着けよう。
なんとか着替え終えた私は、ふらふらする足取りで病室を出て廊下の向こうの部屋の前でおばさんに声をかけた。
「あの…もう帰ります…ありがとうございました…」
部屋のドアに手をかけ、寄りかかりながら声をかける。
部屋の中からおばさん数人が「え?!」と振り返った。
「ちょっと!まだふらふらするんやろ?そんなんで帰られへんやろ?もうちょっと寝ていきなさい。ね?」
1人のおばさんが私のそばに駆け寄り、私の腕を持ちながらそう言った。
おばさんは私の行動に驚いているようだった。
「痛みには弱いのにねぇ…」
「急に帰るなんてなぁ…」
「どうしたん?あの子」
部屋の奥で他のおばさんたちがそう言っているのが聞こえる。
あぁ…
そうか。
私はまだ帰れるような状態じゃないんだ。
「あ…はい…そう…ですね…」
おばさんにふらふらとする身体を支えてもらい、病室に戻る。
「ほら。横になって。もう少し寝て行きなさいね。時間は気にしなくてええから。」
おばさんは私を洋服のままベッドに寝かせ、白いノリの効いたシーツのかかった掛け布団を私の上にそっとかけた。
「あぁ…はい…」
返事をしながら、もう目が閉じていく。
身体が思うように動かない。
早くここから出たいのに帰る事すらできない。
ベッドに横たわった瞬間、安堵を感じている自分に腹が立つ。
情けない。
私は情けない奴だ。
とろとろともう一度眠りにつき、私は夢を見た。
赤ちゃんを抱いている夢。
ふんわりと温かい赤ちゃんを抱っこしてる私。
その温かさに一瞬顔がほころぶ。
「うわぁ。かわいいー」とつい口にでた次の瞬間。
赤ちゃんを見るとまるで可愛くない顔。
そして顔色がどす黒い。
「なにこれ?!ぜんっぜんかわいくない!!」
私はそう思ってしまう自分を責める。
私は自分の赤ちゃんを可愛いと全く思えない欠陥のある女なんだ。
どうしよう。
どうしよう。
産んでしまったのにどうしよう。
こんな可愛くない、いや、むしろ気持ち悪い子を産んでしまってどうしたらいいんだろう。
私はこの子をどうしたらいいんだろう。
そして我が子を可愛いと思えない、醜いと思ってしまう私はこれからどうしていったらいいんだろう。
赤ちゃんを抱きかかえながら右往左往する私。
この子を殺してしまうかもしれない。
この子を捨ててしまうかもしれない。
どうしよう。
誰か助けて。
いや、こんなこと誰にも言えない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう……
ハッと目覚めると私は涙を流していた。
あぁ…
夢だったんだ…
ハラハラと流れる涙。
目はただただ見開いている。
…今度こそ帰ろう…
目を見開いたまま涙を拭い、私はゆっくり起き上がった。
その時、病室のドアの横でおばさん看護師さんが私に声をかけた。
「起きた?もう夜の7時やけどー。もう帰れる?」
病室の時計を見るともう19時を少し過ぎていた。
「あ…はい…帰れます。」
私はゆっくりとベッドから立ち上がり、さっきよりしっかり足が着けることを確認して安堵した。
「じゃ支払いしてもらうから、荷物まとめて受付に来てねー。」
おばさんはサバサバとした口調で私にそう言った。
「あ、はい。」
私は淡々と荷物をまとめ、ゆっくりと自分の足取りを確認しながら受付へと向かった。
「大丈夫?帰れそう?」
受付の窓からおばさんが顔を出し、私に聞いた。
「あ、はい。大丈夫です。」
そう答えた時、奥の診察室からおばあさん先生がガチャッとドアを開けてやってきた。
「どう?大丈夫?痛みは?」
腰の曲がったおばあちゃん先生はゆっくりと歩きながら私に聞く。
「あぁ…先生。ありがとうございました。痛みは…ないです。」
「出血は?してた?」
「あ…そんなにはしてないかったです。」
私はさっき見た股に挟んであった脱脂綿のようなものを思い出し、そう答えた。
じっさい出血はほとんどしていなかった。
「そうか。じゃ気をつけて。1週間後にまた来てくれる?経過見たいから。それと、仕事な。2週間は空けた方がええで。まぁ自分の判断でみんなやってしまうけどな。こっちがいくら言うてもな。」
おばあさんは半分呆れたようにそう言いながら「じゃ、お大事に」と診察室に帰って行った。
私は「はぁ」と答えてその後ろ姿をボーっと見送った。
「じゃ支払いお願いしますね。麻酔も規定内でおさまったので11万円です。」
「あ、はい。」
私は封筒に入れて持って来ていた11万円を支払い、余分に持ってきたお金を使わなくてよかったと内心ホッとしていた。
「領収書いります?」
おばさんが私に聞く。
「あ…じゃ一応お願いします。」
私は必要なのかな?といぶかしく思いながらも一応もらうことにした。
「じゃ、これ領収書ね。お大事に。気をつけて帰ってや。」
おばさんがやっぱりニコリともせず、淡々とした口調で私に言った。
「はい。お世話になりました。」
私は頭を下げ、靴を履いた。
おばさんは私が靴を履き終え、ドアを出るまで見送った。
「お大事に。気をつけて。」
ドアを出る私に声をかける。
今日は受付のガラス窓をピシャリと閉める音を聞かなくてすんだ。
私はドアを閉めるときにぺこりと頭を軽く下げて挨拶をした。
おばさんは「うんうん」と二度ほど頷いて、私を憐れんだような目で見ていた。
終ったんだな…
病院の外に出ると辺りは真っ暗でそしてとても寒かった。
あ…コバくん…
私はすぐに携帯を取り出し、電源をオンにした。
コバくんからメールが届いている。
なぜかドキドキしながらメールを開ける。
ゆきえー
体調どない?
俺、今日めっちゃ帰り遅くなるわ。
トラブルがあって残業!!
何時になるかわかれへん。
もーいややー!
はよゆきえに会いたいわぁー
残業…
めっちゃ遅くなる…
その文面を見て「やった」と思っていた。
今日はできれば1人でいたい。
できるならこれから何日かは1人で過ごしたい。
なんて言おう…
コバくんの実家はコバくんの会社からそんなに遠くない。
もちろん私の部屋に帰って来るよりよっぽど実家の方が近い。
ずっと実家から会社に行っていたんだから。
これから数日間はコバくんに実家で過ごしてもらいたい。
でもなんて言おうか。
私は術後の朦朧とした頭でグルグルと考えを巡らせていた。
はやく自分の部屋で横になりたい。
誰に気兼ねすることなくゆっくりと眠りたい。
これから乗る電車を思うと憂鬱だ。
コバくんに送るメールの文面を考えるのも億劫だ。
でも電車に乗らなければ家に着けない。
コバくんにメールを送らなければ1人の時間を手に入れられない。
はぁ…
私は溜息を1つ吐き、携帯の画面をジッと見ながらゆっくりと歩きだした。
つづく。
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