㉜
次の日。
私は「堅田(かたた)」という駅に向かった。
雄琴村は「比叡山坂本駅」と「堅田駅」のちょうど真ん中あたりに位置している。
「最寄駅は…」と聞かれたら「うーん…まぁ比叡山坂本駅ですかねぇ…」と答えるくらいの場所。
比叡山坂本駅の近くにも、堅田駅の近くにも、『平和堂』という大型ショッピングプラザ?のようなお店があった。
初めて比叡山坂本駅からその『平和堂』の看板を見た時は違和感しかなかった。
長崎屋とイトーヨーカドーを合わせたような、鳩のような鳥が描かれている看板。
そして『平和堂』といネーミング。
地方だなぁ…
そんなことを思った。
昨日、ノートに決意を書いたことが私の行動を変えていた。
郵便局に行き、口座を作る。
10万円をその口座に入れた。
手元に残ったのは数万円。
その数万円を握りしめ、堅田の平和堂でお店をぐるぐると回った。
新たに下着を数組。
お店で着る洋服を2枚。
個室に置くウイスキーやブランデーを物色して購入。
そして…
私はどうしても欲しかったマウンテンバイクを買った。
1万2千円。
私は久しぶりに仕事が絡まない“自分のため”の物を購入した。
残りのお金はほんのわずかなものだった。
これで毎朝琵琶湖周辺を走ったら痩せるんじゃないか?という思いと、単純に「乗ってる姿がかっこいいんじゃないか?」という思いからだった。
「あ、これ、乗って帰れますか?」
自転車売り場のおばさんに聞く。
「え?乗ってかえるん?どこまで?」
「えーと…」
ふいに聞かれた「どこまで?」に戸惑う。
さすがに「雄琴村の『花』まで!」とは言えない。
「えーと…、10分から15分位行ったとこです。」
なんだその答えは?!と自分でつっこみたくなるような返事。
「そうですかぁ。じゃ、今準備しますねぇ。」
その返事をさほど気にしていない様子のおばちゃんは、自転車装備担当のおじさんに準備を促した。
無事手元に来たマウンテンバイクにまたがる。
背中には大きなリュックを背負っていた。
そのリュックに買った洋服や下着やビールやウイスキーやブランデーを詰め込んで
国道を走る。
どこまでも行けそうな気がしてきた。
琵琶湖が見える。
琵琶湖沿いの道に出て、しばらく雄琴村とは反対方向に自転車を走らせた。
小さなベンチがある小さな公園のようになっている場所を見つけた。
そこで自転車を止めベンチに座る。
はぁはぁとあがる息。
おでこからは汗が出てきていた。
早く痩せないかなぁ…。
この自転車こぎでカロリーどれくらい消費できたのかなぁ…。
綺麗にキラキラと光る琵琶湖を目の前にしてそんな事ばかりを考えてしまう。
お腹空いたなぁ…。
でもなぁ…。
どこにいても、何をしていても、頭の中はそんなことばかりだ。
ジッとしてるとそんな事ばかりを思ってしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。
戻ろう…。
自転車にまたがり、雄琴村を目指す。
時間はまだ15時。
行くところがない。
どこに行っても何をしても逃れられない。
早く明日の出勤時間になればいいのに…。
とうとう私はそんなことまで考え始めていた。
自転車を走らせている時間が唯一の気持ち良い時間だった。
国道沿いを走っていると雄琴村が見えてきた。
堅田から雄琴村に向かうと、雄琴村ソープ街の中で唯一国道沿いから直接車が入れるお店、『龍宮御殿』が見える。
その龍宮御殿の前を自転車で通り過ぎて、雄琴村の入口の一つであるゴールデンゲートをくぐろうとした。
その時、一人の男性が声をかけてきた。
「あれー?!もしかして『花』の新人の子ぉ?」
「え?」と自転車を止めて振り返ると、そこには細身の口ひげをはやしたおじさんが立っていた。
「あ、はい!そうです!」
とっさに答えてしまった。
「そうかぁ。自転車でこんなとこ入っていくなんて変わった子ぉやなぁ。」
雄琴村はほとんどの人が車で出入りをする。
徒歩で来る人なんてめったにいないし、ましてや女の子が自転車で入っていくなんて珍しいことみたいだ。
「あー…そうですよねぇ…」
「あはは!広田のおっさんから聞いてたんやー。若い子ぉが入ったってなー。」
そのヒゲのおじさんは龍宮御殿の呼び込みをやっている人だった。
白いポロシャツによれよれのジーパン。
豊富な黒髪にアイパーをかけていた。
歳はだいたい50歳くらいに見えた。
「名前なんて言うん?」
気さくな話しぶり。
「有里です!よろしくお願いします。」
私は自転車から降りて挨拶をした。
「へぇー!広田のおっさんから聞いてたけど、ほんまに良い子そうやなぁ。
まだスレてなさそうやなぁ。」
おじさんはニコニコしながら言った。
「えー…ありがとうございます。なんだか…まだ何にもわからないのでいろいろ教えてください。」
「何曜日休みなん?出勤時間は?」
私は素直に休みの曜日と出勤時間を答えた。
「そうかー。うちのお客さんでな、有里ちゃんみたいな子ぉがタイプな人がおんねんなー。紹介してあげたいんやけどなぁ。」
思いもかけないことを言われた。
「え?!いやいやいや。あははは。違う店の子ぉ紹介してどうするんですか!」
「まぁなーそうやねんけどなぁー。あははは!」
おじさんと私はしばらく立ち話をしていた。
「有里ちゃん。がんばりや。なんや、有里ちゃんのファンになってしまったわ。あはは!応援するわ。」
おじさんは別れ際にそんなことを言ってくれた。
素直に嬉しかった。
「えー?!ありがとうございます!!」
「おう。またなー。」
私は自転車に乗り、片手でバイバイをした。
「花」は龍宮御殿からすぐの場所にある。
自転車で帰ることに若干の恥ずかしさがあった私は、なるべく早くお店に入ろうとしていた。
店の外でお客さんの車が来るのを待ち構えているボーイさんたち。
他の店のボーイさんたちは私が自転車で帰ってくる姿をジロジロと見ていた。
お店に戻り台所に向かう。
「お疲れさまでーす。」
台所から控室に向かって声をかけた。
「あー有里ちゃん!すごい荷物やなぁー!」
「今日は?どこ行ってたん?」
「お腹空いてるんやない?そこの冷蔵庫にプリンあるで。あげるわー。」
「ゴハン食べたらええやん。休みでもここの食べたらええやんなー。」
みんなが相変わらず一斉に声をかけてきた。
やっぱりちょっと居心地がいい気がしてしまう。
「有里ちゃん、お帰りー。」
ここまでずっと7連勤をしている忍さんが、台所の隅から声をかけてきた。
「あ、忍さん!お疲れさまです。連勤…なんですよねぇ?大丈夫ですか?」
忍さんはお皿にたくさんのおかずとゴハンを山盛り乗せていた。
そして今はフライパンでお肉を焼こうとしている時だった。
「え?うん!大丈夫やでー。お肉買ってきてもらってん。猿渡さんに。
有里ちゃんも食べる?」
妙に明るい忍さん。
そしてやっぱり異常な食欲だった。
「いや…いいです。あー、でも私もゴハン食べようかなー。」
「うんうん。食べたらええやん。一緒に食べよー。」
大きなリュックを降ろし、お皿におかずとゴハンを乗せた。
「えー?!有里ちゃん、それだけ?!少ないんちゃう?」
忍さんはびっくりした顔をしながら、ゴハンとおかずとお肉を口いっぱいに頬張った。
その食べ方がものすごく美味しそうでうらやましかった。
「忍さん、最近食欲すごくないですか?」
ダイニングテーブルで二人で並んでゴハンを食べる。
一人は目いっぱい口に頬張りながら。
もう一人はもそもそコチョコチョとちょっとずつ。
「そうなんよ!もうお腹が空いて空いて!あかんわー。」
あかんわーと言いながら、次々と口に食べ物を運んでいく忍さん。
その姿はやっぱり少しおかしかった。
「…ピル…のせいですかねぇ?」
一応聞いてみた。
「わからんわー。やばいやんなぁ?このままじゃ。」
さほどやばいとも思ってなさそうな口調だった。
「最近どうですか?お客さんとは。」
初日とは比べ物にならないくらい明るい忍さん。
そこにもなんとなく違和感があった。
「え?別にぃー。まぁあんなもんやないのかなぁ。」
なんとなく投げやりな言い方。
「マットはどうですか?私なんてまだまだプルプルしちゃって!なかなか難しいですよねー?」
もぐもぐと忙しく口を動かしている忍さんにあえて質問をしていく。
「マット?もう適当やわー。やらんときもあるしなー。あはは。だって疲れるやんかー。」
え?
やらない時もある?
疲れるから?
え?
「え?!やらない時もあるってどういうことですか?お客さんに聞くんですか?」
びっくりした。
忍さんがそんなことを言うなんて。
「え?そうやで。『やらなくてもいですかぁ?』って聞くんやで。一回怒られたことあるけどなぁ。あははは。」
お客さんに怒られて泣いていた忍さんが…。
なんだか変わってしまった。
「有里ちゃんも聞いてみたらええよ。SEXだって、毎回ちゃんとやってたら身ぃがもたへんもん。適当にごまかしながらやった方がええって。どうせお客さんだって一回こっきりなんやから。」
…えー…
私は軽くショックを受けていた。
「あはは…はぁ…まぁ…そうですかねぇ…」
まだ何もできない、何も結果を出していない私はこんな答え方しかできなかった。
でも…
なんか違う気がする…
変わっていく忍さんの様子に胸が少しざわついていた。
続く。
続きはこちら↓
はじめから読みたい方はこちら↓