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3月。
今月で終わる。
富永さんは「淋しいのぉ。ほんとに辞めるんかのぉ。」とよく口にするようになった。
富永さんが上田さんにも今月いっぱいで辞めることを言ったようで、「アリンコ。なんで辞めるんや?ほんまに辞めるんか?」と聞いてくるようになった。
私はそろそろお客さんにも伝えていかなければと思っていた。
ずっと長い事通ってくれているお客さん数人には2月の時点で伝えていたのだけれど、ありがたいことにみんなが「残念やなぁ…」と淋しそうに言ってくれた。
私をずっと指名してくれてるお客さんは割と遊び慣れている人が多くて、「なんで辞めるんや?」と聞いてくるけど、深く聞こうとする人は1人もいなかった。
そして決まってこう言ってくれた。
「有里がいなくなってしまうのは淋しいけど、がんばりや。ずっと応援しとるで。有里ならどこでもやっていけるわ。」
私はこういう優しい言葉を聞くたび泣きそうになった。
でも接客中に泣くのが嫌だった私は、必死にこらえて「そりゃそうやろー!あはは。」と笑ってふざけていた。
そろそろK氏に連絡をとらなければと思う毎日が続く。
いつこちらから連絡をとるのがベストなのかわからない。
頭の中にいつも響く。
「そろそろ連絡しなければ」の言葉が。
正直K氏に連絡をするのが怖くて仕方がなかった。
K氏は私にどんな言葉をかけるだろう。
逃げ出した私に。
ある日コバくんが私にこんなことを言った。
「なぁゆきえ。…もうK氏に連絡するの止めたらええんちゃう?なんでゆきえがそのお金を返さなあかんの?返す必要なんてないやんか。」
私はその言葉を聞いて一瞬怒りを覚えた。
『お前に何がわかるんだ!』と。
でも次の瞬間心が揺らいだ。
『そういえばそうかも…』と。
私はK氏に連絡をするのが怖すぎて『そういえばそうかも…』と思い始める。
この期に及んで私の決心は鈍り始めていた。
このまま逃げ切ったら?
連絡なんかするの止めて、貯まった700万円で何かすればいいじゃん。
そもそも私が払わなければならない義務なんてないんだし。
勝手に罪に感じて、勝手に返さなければいけないと思い込んだだけなんだし。
「う…でも…それはできひんなぁ…」
私はコバくんのこの言葉にひるんでしまい、小さな声でしか返事をすることができなかった。
私はそれからグルグルと“そのこと”について考え始める。
『連絡をしなくてもいい理由』を考えている自分がいた。
私がこのままK氏に連絡をしなかったらどうなるんだろう?
どこかで捕まるのだろうか。
捕まったらどうなるんだろうか。
そして私はどうやって生きていくんだろうか。
私は3月いっぱいで殺されると思いながら生きていた。
そんな私が“これからのこと”を考えてみる。
私の“これから”があるとしたら、私はどうやって生きていきたいんだろうか。
そんなことを考えている時、私は“生きていく”ということがわからなすぎて泣きたくなった。
K氏に連絡をせず、逃げて生きていく方がいいのか。
今は怖いけれど、K氏に直接連絡をして真正面から話してお金を渡した後殺された方がいいのか。
私は考えて考えて考えた。
そして実感してしまった。
私のこの後ろめたさは消えることはないということを。
たとえ「そんな返す必要のないお金を返すなんてアホだ」と言われようとも、「後ろめたさを感じる必要なんてない」と言われようとも私の“これ”は絶対なくなることはない。
「コバくん。私、やっぱりちゃんとK氏に会うわ。」
コバくんから「連絡するの止めたら?」と言われた数日後、私ははっきりとした声で、まっすぐにコバくんを見てそう言った。
コバくんは私のその姿を見て悲しい顔をした。
そしてその顔のまま「…そうやな。ゆきえがそう決めてここに来たんやもんな。」と言った。
私は毎日淡々とお仕事をこなし、少しずつお客さんにも今月で辞めると伝えた。
富永さんは私の送別会を企画しているから最終日の夜は空けておいてくれと言った。
理奈さんは毎日「ほんまに辞めるん?」と聞いてきて、上田さんは「アリンコー。辞めると淋しいぞー。」としょっちゅう言っていた。
日を追うごとにコバくんの笑顔はひきつり始め、無理してふざけているのがバレバレになった。
私は毎日「今日連絡する?」と自分に問いかけ、その度にガクガクと足が震える程の恐怖を味わっていた。
3月の終わり頃。
私はこの毎日の恐怖に耐えられなくなり、とうとう「今夜K氏に連絡するわ。」と仁王立ちの姿勢でコバくんに伝えた。
「…うん。そうか。俺がいる時間に連絡してや。ゆきえ1人でせんといて。こんな俺でも役に立つかもしれんやろ?1人でいるよりも俺がいた方が混乱せんかもしれんやろ?な?頼むわ。」
コバくんはどこかあきらめたような表情で私にそうお願いをした。
「…わかった。じゃあ今夜コバくんがいる時間に連絡するわ。」
「…おう。ありがとう。」
コバくんは優しく私を抱きしめ、私の頭にキスをした。
「じゃ、行ってくるわ。待っとって。」
「うん。いってらっしゃい。気をつけてね。待っとるわ。」
私はコバくんを会社に送り出し、洗濯をして掃除機をかけた。
今日は火曜日。
私のお休みの日だ。
今夜連絡をすると決めてしまった。
落ち着かない。
何かをしていないといられない。
今夜の私はどんな顔をしているだろう。
そしてどんな気持ちを味わっているのだろうか。
K氏はどんな言葉を私にかけるだろう。
もし罵倒を浴びせられたら私はどうなるんだろう。
もし「今から殺しに行く」と言われたらどうするだろう。
そして私はK氏にどんな言葉を言うのだろう。
「…映画でも行こうかな…」
私は雄琴に来たばかりの頃よく行っていた大津のパルコに行こうと思い立った。
『花』にいた時にはよく行っていた場所。
休みの日を持て余すのは今も変わっていないけど、『花』の上の寮にいた時はよく大津パルコで持て余した時間を潰していた。
思い出すとなんだか切ない。
まだ数ヶ月前のことなのに、だいぶ昔のことのようだった。
私は持て余しすぎていたたまれないこの時間をなんとかしようと身支度を整え始めた。
頭ではK氏のことを考えながら、身体は出かける準備をする。
きっと映画を観たってこの持て余した感じはなくならない。
それでもこの部屋にいるよりはマシだろう。
私は部屋が整っているかぐるっと確認をしてから部屋を出た。
今夜。
今夜だ。
早く夜になってほしい気持ちと、永遠に夜になってほしくない気持ちがない交ぜになっている。
「はぁ。」
私は小さく息を吐いて外に広がる景色を眺めた。
私の“これから”が今夜なんとなくわかるかもしれない。
つづく。
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