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ぐちゃぐちゃになっていた顔をなんとか綺麗に直し(泣いた後だと一目でわかるような顔だけど)、戸惑っている気持ちをなんとか奥にしまいこむ。
壁に取り付けられている姿見に全身を映し、“自分”を整える。
「…はぁ!」
一つ大きく息を吐き、背筋を伸ばす。
こういう時高いヒールは役に立つ。
どうしたってスッと立たなければならないから。
私はK氏への返事が決められないまま、高いヒールを鳴らして下のラウンジに向う。
とにかく私は今後も生きていかなければならないらしい。
どうやって?
どうやって生きていけばいいんだろう?
ホテルのラウンジはこじんまりとしたスペースで、薄暗い照明が大人の雰囲気を醸し出していた。
もうバータイムになっているらしく、ラウンジ入口正面にあるカウンター内には黒いベストに蝶ネクタイを着けた、美しく格好良い女性バーテンダーが立っていた。
K氏はカウンターの一番端の席に座り、横の壁に背を少しつけている。
K氏はどこのバーに行っても一番端に座り、必ず壁に背をくっつけて座る。
いつ誰が襲ってくるかわからない過去を持ち、未だにそんな世界に足をつっこんでいることをこの座り方が物語っていた。
「おう。早かったな。」
K氏はカウンターの端の席から私に向かって手を挙げてそう言った。
「あ、すいません。お待たせしました。」
私はペコっと頭を下げて、K氏の隣の席に座った。
「…うん。…泣いた後だってすぐわかる顔だな。ははは。」
K氏は私の顔を横からジッと見て笑った。
「あはは…そうですよねぇ。恥ずかしいです。」
私は少し下を向いて手で顔を隠した。
「ははは。…いや…綺麗だよ。」
K氏は私の手をどけて顔をチラッと見ながらカウンターに肘をつく。
「何飲む?お前は酒が強いからなぁ。」
優しい笑顔。
私は一気に自分が『いい女』になったような錯覚を起こす。
何度この感じにやられてきただろう。
薄暗いバーのカウンター。
心地よく流れるジャズ。
ロックグラスの氷の音がカランと小さく響く。
大人の世界。
私が憧れてやまなかった世界。
「お兄さんは何を飲んでいるんですか?」
「ん?俺はマッカランのロックだよ。」
「そうですか。じゃあ…私は…ジャックダニエルのロックでお願いします。」
「ほう。そうか。そうきたか。ははは。」
ジャックダニエルはK氏と一緒によく飲んでいたお酒。
ジャックダニエルはバーボンではないんだぞ。よく間違える奴がいるんだけどな。とK氏が教えてくれた。
「あの映画はよかったなー!ゆきえ、覚えてるか?」
K氏はジャックダニエルが出てくる大好きな映画の話しをし始めた。
一緒に映画を観て、一緒にジャックダニエルを飲んだ思い出。
「覚えてますよ。私もあれからもう一度観ましたもん。カッコイイですよねぇ。」
「あれはたまらないよなぁ!」
「あ、じゃあ…頂きます。」
私は目の前に差し出されたグラスを持ち上げ、K氏の方に向けた。
「おう。サルートー!!」
「あはは。サルート!」
K氏は乾杯の時、必ず「サルート!」と言う。
とても、とても懐かしく感じる。
「ゆきえはいくつになったんだっけ?」
ロックグラスにちびりと口をつけた後、K氏は私に聞いた。
「22になりました。」
「ほう。22でジャックダニエルのロックをバーで頼む女は早々いないぞ。はははは。」
「え?!そうですか?!お兄さんが仕込んだんじゃないですか!!あははは。」
笑っていた。
いつの間にか私は笑っていた。
ヤバい。
K氏のペースに巻き込まれ始めている。
「…おまえがいなくなって綾子はかなり落ち込んだんだぞ。少しでも時間ができたらお前を探してた。」
K氏はカウンター前のお酒がずらりと並んでいる棚を見ながらそう言った。
「あ…そう…なんですねぇ…」
私はK氏の横顔をチラッと見てから俯いた。
「おまえがいなくなってしばらくしてから代わりを入れようとしたんだよ。綾子と一緒に仕事を回していく新しい子をな。そうしたら綾子が反対したんだ。『ゆきえちゃんじゃなきゃ意味がない』ってすごい勢いでな。」
K氏は私の方に顔を向け、グラスを片手に持ちながら「はは」と笑った。
「あいつのあの時の勢いはすごかったな。それにお姉さんも同意したんだぞ。」
お姉さんとはK氏の奥さんのことだ。
K氏の奥さんは美人で聡明でとても気丈な女性。
仕事も家事も全てをこなせるとうていかなわない人だった。
お姉さんと綾子さんはとても仲が良く、2人してとても美しくて聡明だった。
この2人がいつもK氏のそばで仕事もプライベートも回していた。
私はこの2人に可愛がられていたけれど、同時に劣等感もかなり感じていた。
「おまえは綾子とお姉さんの2人に守られていた。そして絶大な信頼を寄せられていたんだな。あの2人がここまで言う女はおまえ以外いなかったよ。」
マッカランのロックに口をつけながらK氏は笑う。
私はその話しを聞きながら、嬉しさと申し訳なさを味わっている。
「あの2人はおまえのことを待ってるぞ。もちろん俺もだけどな。」
K氏はカウンターに組んだ腕を乗せ、顔を私の方に向けながら真剣にそう言った。
「あ…ありがとうございます。」
私は身体をK氏の方に向け、改めて深々と頭を下げた。
こんな卑怯な私にここまで言ってくれるなんて。
そして綾子さんとお姉さんがそんなことまで言ってくれてたなんて。
いたたまれなくてK氏の顔が見れない。
「お礼なんかいらないんだよ。俺はおまえの『戻ります』の言葉が聞きたいんだよ。」
K氏は私の肩をポンポンと叩きながらまた「はは」と笑った。
「まぁ飲もうぜ。これ飲んだらカシを変えようや。まだまだ夜は長い。な?」
「は…はい。」
私はまた流れて来そうになっている涙をグッと引っ込め、ジャックダニエルを口に含んだ。
「いい店があるんだよ。おまえもきっと好きだぞ。行こうぜ。」
K氏はスマートに支払いを済ませると私を外に連れ出した。
「狭い店だけどな、つまみも美味いしいいんだよ。砂肝炒めはぜったい食えよ。美味いから。ははは。」
K氏は高級店ではスマートな身のこなしを披露し、大衆的な店ではそこになじむ。
私はK氏のそういうところに惹かれていた。
K氏と一緒に町田の街を歩く。
緊張しながらも嬉しい。
「おまえはいい女だな。みんな振り返るぞ。ははは。」
お世辞だ。
この人はこうやって女をいい気分にさせる天才だ。
それがわかっていながら喜んでいる私はバカだ。
「そういう嘘やめてくださいよー。ほんと天才ですよねー。本気の女ったらしだなぁ、お兄さんは。」
私はK氏の少し後ろを歩きながら言葉を返した。
「お?おまえ、成長したな!はははは。」
「え?ここは認めるところじゃないですよね?もう一回くらい言ってくださいよー!あはははは。」
「お?そうかそうか。ごめんごめん!あははは。」
K氏とのふざけ合いも久しぶりだ。
こういう時間もたくさん過ごした。
怖い時間も酷い時間も辛い時間もこの人からたくさん与えられたけど、こういう楽しい時間もたくさんあったことを思い出す。
みんなが恐れるこの人と、こういうふざけ合うことができる優越感に何度浸っただろうか。
「ここここ。入れよ。」
K氏が連れて行ってくれたお店はこじんまりとしたバーのような居酒屋のような店だった。
コの字型のカウンターだけのお店で、暖色の木の壁にはいろんなチラシやポスターが雑然と貼られていた。
カウンターも暖色の木製で、店全体が雑然としながらも温かい雰囲気に包まれていた。
「こんばんわー。ここいい?」
K氏が慣れた口調で店主に話しかける。
「はい!いつもありがとうございます!いいですよー。」
恰幅のいい、人のよさそうな店主がにこやかに対応する。
K氏は迷わずカウンターの一番端、壁際の席を選ぶ。
「…まだこの席じゃないとな。ははは。いつ襲われるかわかんねぇんだよ。」
K氏はグッと背中を半分壁に押し付けて座る。
片足は床につけたまま。
「ずっと背中を見せたまま座るって怖い事ですか?」
私はK氏のその姿を見て、なんとなく聞いてみたくなった。
「…怖いな。恐ろしくて考えたくもないなぁ。」
私を一瞬だけチラッと見て、すぐに遠くを見つめながら答えるK氏。
この人の過去はどんなだったのだろう。
少しだけ胸が締め付けられる。
「レモンサワーくれる?ゆきえは?」
すぐに明るい口調に変わり店主に注文する。
「あ、私も同じもので。」
「じゃレモンサワー2つ。あと砂肝ね。あとは…また考えるわ。とりあえずそれでお願いします。」
私はにこやかに注文するK氏を見て心が揺れる。
この人のそばにいたい。
私はこの人のそばで成長したい。
そんなことをチラッと考えてしまっている自分に気付く。
そして立ち止まる。
いやいや。
そんなことをしたらまた前のようになるだけだ。
自分を押し殺し、恐怖をあじわう時間がまたやってくるだけだ。
「じゃ、サルートー!」
K氏が笑顔で私にグラスを向ける。
「あはは。サルート。」
カチンとグラスを合わせ、グイッとレモンサワーを飲む。
「美味いなー!お!砂肝もきたぞ!ゆきえ、食えよ。美味いぞー!」
「うわ!美味しそうですねぇー!頂きます。」
レモンサワーも美味しかったし砂肝も美味しかった。
そしてK氏の笑顔も淋しそうな顔も真剣な顔も愛しかった。
「で?戻って来る気になったか?はははは。」
会話の途中途中でふざけながら私に聞くK氏。
私はその度に「ありがとうございます。」と言い、はぐらかす。
戻ろうか。
いや、それはダメだ。
戻ればまたこの人と一緒に過ごせる。
いや、それは破滅への道だ。
戻らなければいけないんじゃないか。
いや、そんなことをしたら私はまた壊れる。
この人は私に戻ってきて欲しいと言っているんだから戻った方がいいんだ。
いや…
戻れば…
いや…
戻ったら私は…
いや…
心の中で延々と続く対話。
私は私と対話している。
「俺はおまえがいる未来しか想像できない。俺が想像する未来にはおまえの姿がいつもいるんだよ。そばにいてくれよ。」
K氏は何度もそんな言葉を私に言った。
私はその度に嬉しさを味わい、そして同時に戸惑いを感じた。
決められない。
どうしても決められない私がいる。
つづく。
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