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「はい。シャトークイーンです。」
電話の向こうから富永さんの接客用の声が聞こえる。
なんだか安心して涙が出てくる。
「お疲れさまです。有里です。」
私は10日ぶりに私のことを「有里です」と言った。
当然のように。
「おー!有里!どうや?明日から出られるのか?」
富永さんは電話の相手が私だと知ると、すぐにいつもの口調に戻った。
たったそれだけのことがとてつもなく嬉しく感じる。
「あ…はい。大丈夫です。長い事お休みしてしまってすいません。明日からまたよろしくお願いします。」
おばあちゃん先生は2週間は空けた方がいいと言っていた。
でも私には無理だ。
あと何日間もこの生活を続けるなんて無理だ。
はやく仕事がしたい。
いや、仕事がしたいんじゃない。
“何か”をしていなければいられない。
「おう。よかった。連絡くれてよかった。有里のことやからちゃんと連絡よこすとは思っていたけどな。明日、待っとるで。もう予約とってもええやろ?待ってるお客さんおるで。」
電話の向こうの富永さんはなんだか嬉しそうだった。
私の心がちょっとだけ緩む。
「はい。大丈夫です。富永さん。ありがとうな。明日行くからな。」
待っててくれたことが嬉しい。
連絡をしただけで喜んでくれる人がいることがありがたい。
こんなボロボロなめちゃくちゃな私を。
「おう。待っとるで。じゃ、明日な。」
「はい。また明日。」
プツ…
電話を切るとなんだかやる気が出てきていた。
行くところがある。
私の場所を用意してくれている人がいる。
それがこんなにありがたいなんて。
でも…
ちょっとだけ不安がよぎる。
私の身体は大丈夫なんだろうか。
もう一度あの病院に術後の経過を診せにいかなければならない。
でも私に行く気はもうない。
まぁ…なるようになるだろう。
今さら仕事に行く日を先に延ばすなんて嫌だ。
私はこの無為な毎日から早く逃げ出したい。
身体がたとえしんどくても、この苦しい毎日を続けるのはあとほんの数日でも耐えられなかった。
明日のことをなんとなく考えている時、ふいに携帯が鳴る。
コバくんからだ。
「もしもし。」
私はちょっとだけ躊躇して電話に出た。
「…ゆきえ?今いい?」
「休みたいからほっといて」と言った日から、私は一度もコバくんに連絡をしていない。
メールも送っていない。
自分のことで精一杯だったから。
毎日地獄のような辛さだったけど、コバくんが助けられるようなことじゃなかったから。
コバくんからは毎日メールが来た。
「ほっといて」と言ったのに、毎日必ず一通はメールを送ってきていた。
それは「ゆきえ。大好きやで。」や「辛くないか?」とか「今日は仕事めっちゃ忙しかったー」とか、そんな内容だった。
そして最後に必ず「返事はいらんから。俺が勝手に送ってるだけやからね。ゆっくりしてや。」と書いてあった。
私は毎日コバくんからのメールを見て、自分の心がシーンと白けていることを確認していた。
まるで心が動かない。
ただただシーン…としていることを知る。
そしてそんな私を私は責めていた。
「うん。ええよ。」
私は少しの罪悪感を感じながら優しい声で答えた。
「…体調大丈夫?」
コバくんが私の様子を伺いながら言葉を発している。
「うん。もう大丈夫。明日から仕事行くわ。」
「…そうか。ほんまに平気なんか?」
「うん。もう平気。富永さんも待っててくれたし、もう行かなな。」
私は極力明るい声で話した。
その話し方にコバくんも少し気を緩め始める。
「そうか。よかったぁ~。俺毎日心配で…メールも毎日送ってしまってごめんやで…。どうしても送らないられへんくて。」
コバくんが甘えた声で謝ってくる。
いつもの感じが出てきた。
「ううん。ありがとう。しんどくて返事送られへんかった。ごめんなぁ。」
私もいつもの感じで返事をする。
この返事じゃ私がコバくんのメールを見てシーン…としていたなんて微塵も思わないだろう。
「…それで…ゆきえ?…俺…」
コバくんがごにょごにょと何かを言いたそうにしている。
言いたいことはわかってる。
でもあえて私からは言わない。
まだ迷ってるから。
「うん?何?」
私は意地悪だ。
性格が悪い。
わかってるのに「何?」と聞くんだから。
「…うん…あの…俺、もうそっちに帰ってもええのかな…?」
コバくんは言いにくそうに、そして私に伺うように聞いた。
どうしようかなぁ…
私はこの1人の時間が欲しかったのに、実際に1人の時間ができるとめちゃくちゃになってしまう事実を目の当たりにした。
仕事から帰ってきて1人だとまためちゃくちゃになってしまう。
部屋だってだれかがいるから綺麗にしようとしているようなもんだ。
仕事から帰ってきて、部屋にコバくんがいるから食べ吐きをしないようにしているようなもんだ。
コバくんがいなかったら私は夜中に毎日食べ吐きをして、ぐちゃぐちゃな部屋のまま仕事に行って、また帰ってきて食べ吐きをして…の無限ループになってしまう。
それは嫌だ。
「ええよ。帰ってきて。」
気付くと私はそう答えていた。
別に愛してなんかいない。
というか『愛している』がわからない。
『大好き』すらわからない。
それなのに、私は私を“ちゃんとした女”にしていたいがためにコバくんを利用するのだ。
この行為自体が“ちゃんと”していないのに。
「ほんま?!ええの?!ほんまに?!やったーーーー!!今日?今日帰ってもええ?仕事終わったらそっちに帰ってもええの?」
電話の向こうのコバくんが「飛び上がってますか?」と聞きたくなるような喜び方をしている。
「あはは。うん。ええよ。帰ってきて。」
私は思わず笑ってしまう。
そんなに無邪気に喜べるなんてすごいな。
「やっっっったーーーー!!はよ終わらせる!仕事なんてもう!すぐ!終わらせる!!まっとって!すぐ帰るからーーー!!」
コバくんがどんな顔でこの言葉を言ってるか目に浮かぶ。
「あははは。焦らんでええから。気ぃつけて帰ってくるんやで。」
「うん!めっちゃ気ぃつける!!やったーーー!!じゃ、仕事めっちゃはよぉやるから!仕事戻るな!ほな!あとで!」
「あははは。うん。あとでな。」
「ふぅ…」
電話を切って、辺りを見回す。
「…掃除機…かけるか…」
立ち上がり掃除機をかける。
掃除機をかけながら夕飯は何をつくろうか?と考える。
昨日までひどい食べ吐きを繰り返していた私が、今は落ち着いて夕飯のことを考えている。
掃除を終え、食べ吐きをした後の大量のゴミを片づける。
コンビニのお弁当やおにぎり、サンドイッチや菓子パンやお菓子の空き袋が山盛りだ。
ここ数日間の地獄が蘇る。
身支度を整え、大量のゴミが入ったゴミ袋を抱えてマンションのゴミ捨て場に持っていく。
ポンポンとゴミを捨て、溜息を一つついて平和堂に買い物に出かける。
食べ吐き用の物を買いに行くんじゃない。
夕飯の買い出しだ。
ただそれだけで『私はちゃんとしたいい女になれたんじゃないか』と錯覚をおこす。
身ぎれいにして夕飯の買い出しをしている自分がほんとの自分なんじゃないかと一瞬だけ錯覚をおこす。
昨日のボロボロでぐちゃぐちゃの私は今はいない。
私は『いい女』の演技を続けよう。
“演技”だと悟られないように。
今日の夜から3月が終わるまで、私は迫真の演技で“いい女”を演じ続けるんだ。
これが演技だと気づかれたら終わりだ。
ほんとの私を知ってしまったら誰も私を認めない。
誰も好いてはくれない。
居場所がなくなってしまう。
せめて3月まで。
私がこの世から去るまで、この演技は必死で続けなければ。
私は背筋を伸ばして買い物のカートを押す。
わざと履いてきたちょっとだけヒールのある靴をカツカツと鳴らしながら、豚肉のパックを見比べたりする。
どっちのお肉のほうがいいかなぁ~と独り言でも言ってやろうか。
それが『ちゃんとしたいい女』に見えそうならば。
帰ったらやることがたくさんある。
お料理をしてお風呂掃除をして洗濯物を畳むんだ。
それが『ちゃんとしたいい女』のやることだろうから。
私はボロボロでぐちゃぐちゃでめちゃくちゃな私を必死で隠した。
これがバレたら生きていけない。
床を拭き、お風呂を磨いて洗濯物を畳む。
その間お料理の献立を考え、段取りを頭の中で組み立てる。
楽しくもないし、やりたいとも思っていない。
ただそれが『ちゃんとした女』になれる方法だと思っているからやっているだけだ。
そしてそれを考えてやっている時は食べ吐きをしないですむからだ。
私は頭をフル回転させ、ずっと動き続けた。
コバくんが帰ってくるまでに完璧にしなければ気がすまない。
そうじゃなきゃ“演技”だとバレてしまうから。
“演技”がいつしか“本当のこと”に変わる日がくるかもしれない。
そんなことを頭の片隅で考えていた。
つづく。
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