180
朝7時。
コバくんからのTELが鳴る。
私はソファーでトロトロとしたまま電話に出た。
「もしもし?」
「もしもし?ゆきえ?」
「うん。」
「大丈夫か?ごめん。寝てたやろ?どうしても心配で電話してもうた。ほんまごめん。」
私はコバくんのこういうところがちょっと嫌だ。
なんだかモヤモヤする。
「ううん。平気やで。心配かけてごめんやで。」
モヤモヤしながらも私はこんなことを言う。
コバくんより自分の方がもっと嫌だ。
「どないなん?辛いか?」
コバくんはものすごく心配そうな声で私に聞いた。
「うーん…まぁしんどいな…。でもちょっと休んでれば平気やから。しばらく1人にしておいてほしいねん。ごめんな。」
「…そうか…ゆきえは1人の方がゆっくり休めるんか?」
コバくんが淋しそうな声で聞く。
ちょっとだけ胸が痛むけど、コバくんに帰って来られたら今の私はしんどすぎてマズいことになりそうだ。
「うん…そうやね…ちょっと1人でいたいかな…」
「…そうか…じゃあ今夜また電話してもいいか?」
…どうしよう…
ここで「いいよ」と言ってしまったら毎日最低2回は電話をかけてくるだろう。
電話がかかってくる時間を気にしてしまう自分がいる。
せっかく実家に帰ってもらうのに、それじゃあ意味がない。
「…いや…ほんまにしんどくて助けて欲しかったら必ず連絡するから、ちょっとだけそっとしておいてくれる?今夜も電話がかかってくると思ったら時間を気にしてしまうから。自分の寝たいときに寝られなくなってしまうから。」
「…あかんのか?電話してもあかんの?…ゆきえ…いなくなったりせぇへん?勝手にいなくなったりせぇへん?」
コバくんは私の身に何が起こったのか全く知らない。
急にこんなことを言いだされたら不安になるのも無理ない。
もうすぐ殺されちゃうかもしれないなんて聞かされているんだから。
「大丈夫。そんなことせぇへんって。ほんまにちょっと体調が悪いんや。体調悪い時はそっとしておいてほしいって前から言うてるやろ?今回割としんどいんや。だから…ごめんやで。」
私は「もういい加減ほっといて…」と思いながら一生懸命話しをした。
身体が怠くて頭がまだ痛い。
内心イライラしながらもなるべく優しい口調で話そうとしていた。
「…わかった…じゃ…ほんまに約束やで。助けて欲しかったらすぐに連絡してや。あと、そっちに戻っていい日が決まったらすぐ教えてや。俺、待ってるから。いなくなったりしたらほんまにあかんで。な?」
…え?…
電話の向こうのコバくんが泣いている。
涙声で私に訴えてきている。
私は泣いてるコバくんに気付き、「うわぁ…」と思っていた。
内心めっちゃめんどくさいと感じている自分がいた。
「…わかった。約束するから。な?泣かんと。な?」
体調がすごく悪くて、しかも夜中の3時に嗚咽をあげて泣いていた私がコバくんを慰める。
昨日中絶手術をした身で誰かをなだめるっていうことが、こんなにしんどいことなのかと身をもって知った。
「…うん…わかった…ほんなら…ゆっくり休んでや。…はよ顔見たいわ。…ほんまに好きやねんで。ゆきえ。」
「ありがとう。ごめんやで。ゆっくり休むわ。ほなね。連絡するからな。」
「…うん。ほなな…」
プツ…
「はぁ~…」
コバくんとの電話を切って溜息をつく。
毎回思う。
こんな私のどこがいいんだろう。
コバくんとの電話が終わってホッとした私は、またとろとろと眠りについた。
それからの私はとろとろと眠っては起き、また眠っては起き、を繰り返した。
なかなか本調子にもどらない自分の身体にイライラしながら、ただただ無為な時間を過ごしていた。
中絶手術から3日ほど経つと、ちょっとだけ動きたい衝動が湧いてきて買い物に出かけた。
平和堂までてくてくと歩いて行く。
もともと食べ吐きをしてしまうから、もう何年もゴハンらしいゴハンを食べていないようなもんなのだけれど。
「…お腹空いたな…」
歩きながら久しぶりに空腹を感じていることを実感する。
お腹が空いているのに食べたいものがわからない。
食べたいのに食べるのが怖い。
きっとまた食べたら食べ吐き祭りが開催されるに決まっているから。
どうしよう…
ここ3日間はなんとなくおにぎりを食べたり、冷凍庫の中に入っていたうどんを食べたりしていた。
ちょっと食べただけで疲れてしまい、食べ続けることも吐くこともできないくらいだった。
1人で過ごしているのに食べ吐きをしない自分に驚き、ちょっとだけ嬉しかった。
このまま食欲がもどらず痩せていき、ついでに食べ吐きも治ってしまったらいいのにと思っている自分がいた。
でも、どうやらそれはなさそうだ。
グーグーと鳴るお腹。
食べるのが怖いと思っている頭。
私はこのちぐはぐを持て余す。
平和堂に着き、お惣菜コーナーで立ち尽くす。
揚げ物の良いにおいがあたりに立ちこめる。
お弁当が並ぶ棚に目をやると、お腹の音がいっそう大きく鳴った。
「…はぁ…」
嫌だ。
食べ吐きはもう嫌だ。
でも太るのはもっと嫌だ。
私は何も考えられず、お弁当をいくつかカゴに入れた。
ビールとチューハイも数本カゴに入れて、急いでレジに向かった。
私はまだ休まなければいけない身体なんだ。
ビールなんて飲んじゃいけない。
食べ吐きなんてもってのほかだ。
頭ではそう思っているのに身体がいう事を聞かない。
私はなぜか焦ってレジに向かい、お弁当数個とビールとチューハイを買って早足で部屋に戻った。
買って来てしまった。
買い物袋をドサッと床に置き、ぺたりと座り込む。
グーグーと鳴るお腹。
食べ吐きの予感がする。
でもそんなことはしたくない。
私はおもむろにビールのプルトップを開け、ゴクゴクと飲んだ。
ビールで空腹をごまかせば食べ吐きをしなくて済むかもしれないと思ったから。
おばあちゃん先生からはアルコールは禁止されていた。
出血があるかもしれないし、痛みが出てしまうかもしれないからと言われていた。
痛みが出ようと出血しようと関係ない。
私はちょっとだけ回復してきた身体をコントロールできないのだ。
このまま部屋に居続けて空腹と戦うことも、無為な時間を過ごすのも怖くて辛くてたまらない。
身体の回復を待っているのに、回復し始めると居ても立っても居られないのだ。
私は350缶を一気に飲み干し、もう一本ビールを開けた。
キッチンの前の床に座りこみ、ゴクゴクとビールを飲む。
目の前にあるお弁当が目障りだ。
私は買って来たお弁当と数本のチューハイを冷蔵庫にしまい、『食べてもいいものリスト』に入っているスルメいかの袋を手に取り、ソファーに座った。
ちょっとだけ酔いがまわる。
スルメいかをかじってビールを飲む。
私の頭の中は食べ物のことでいっぱいだ。
なんとかスルメいかとビールでお腹を満たしたい。
観もしないテレビを点ける。
ふらふらとした足取りで冷蔵庫に向かい、チューハイを持ってくる。
もう出血の事も痛みの事も忘れていた。
私は私に襲ってくる空腹と真剣に戦っていた。
スルメいかとビールとチューハイでなんとか空腹をごまかし、ほろ酔いになった私は身体の怠さを感じてベッドに横になった。
「はぁ…はぁ…」
頭と首が痛い。
頬が熱い。
…下腹が鈍く痛い…
私は「早く明日になれ」と思う。
そしてそう思ったすぐ後に「明日になったからってなんなんだよ」と1人突っ込む。
この孤独な無為な時間が早く過ぎて欲しい。
せっかくコバくんが帰ってこない1人の時間なのに、少しもゆっくりできない。
少しもリラックスなんてできない。
私はずっと私を監視している。
この何もしない時間を私は私に許すことができないんだ。
お前にゆっくりする資格はない。
お前にリラックスする資格はない。
お前に何もしない時間なんて与えられるわけがない。
こんなにダメなやつにそんな資格はない。
身体の怠さを感じながら、私はベッドから起き上がり、ウイスキーをグラスに注いで飲み始めた。
私は私を傷めつけたくて仕方がなくなった。
そして意識がしっかりしていることにガマンができなくなっていた。
あと何日こうして過ごさなければならないんだろう。
明日はどうやって過ごせばいいんだろう。
ウイスキーロックを3杯飲み終えた時、私は眠りについた。
私はそれからの数日間、お酒を飲み、食べ、吐き、またお酒を飲み、食べ、吐いて過ごした。
無為な時間が許せない私は、食べ吐きとお酒で酔っぱらうことで時間を潰すしかやることがなかった。
それでも皮肉なことに私の身体は回復していった。
その事実に私は何度も涙を流した。
痛めつけても痛めつけても回復する身体。
そしてお酒を飲んでもいつしか意識がはっきりしてきてしまう身体。
逃げられない。
私はこの私から逃げられない。
何度も泣き、お酒で酔っ払い、食べては吐きを繰り返し、私はとうとう休みを使い果たしてしまった。
富永さんと約束した10日が経ってしまった。
私は律儀に約束を守り、10日目に店に電話をかけた。
つづく。
続きはこちら↓
はじめから読みたい方はこちら↓