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次の日の朝。
私は気持ち悪さをごまかしながらコバくんのお弁当を作り、コーヒーを淹れた。
「あれ?ゆきえ最近コーヒー飲まへんなぁ。」
コバくんが私に何気なく言う。
その言葉にドキッとする。
「あー…うん。なんかあんまり飲む気せぇへんくて。今はこっちのが好きみたいやな。」
コーヒーの匂いを嗅ぐと吐き気が増す。
昨日はビールを試しに飲んでみたら見事にやられた。
「なんや体調悪そうやもんなぁ。お酒も飲みたくないんやろ?」
最近の私は今まで絶対飲まなかった『ピーチサワー』や『オレンジサワー』とかを飲んでいる。
アルコールがほんのちょっとしか入っていない、甘いサワーを飲みたくなる。
そんなほんのちょっとしか入っていないアルコールでさえ、敏感に反応してすぐに飲めなくなってしまう。
「うん。まぁ今までが飲み過ぎやったんやろ。あはは。」
コバくんに今の状況を知られたくない。
いや、誰にも知られたくない。
誰にも知られずに終わらせたい。
「大丈夫か?今日はゆっくりできるんやろ?あったかくしてゆっくりしときや。心配やなぁ。」
コバくんはほんとに心配そうな顔をして私をみた。
「お弁当なんてよかったんやで。調子が悪い時は作らんでええんやで。ありがとうな。」
私の頭を撫でながら言うコバくん。
「ううん。できそうやったから作っただけやで。大丈夫。ありがとう。」
私はコバくんに罪悪感を持っている。
貴方のことを好きでもないのに利用している自分をいつも責めている。
「大好きやで」「ゆきえのことが一番大切やで」と言ってくれる存在が近くにいるというこの状況をなくしたくないだけで一緒にいる自分を責めている。
お弁当を作ったりお洗濯をしたり掃除をしたりするのは、その罪悪感を埋めるためのもののような気がしている。
今日だって私は貴方に何も言わずに婦人科に行くんだ。
そしてお客さんの子を身ごもっていたなら中絶手術を受けるかもしれないんだ。
お弁当作りぐらいやりますよ。
コーヒーぐらい淹れますよ。
こんな私を大切にしようとしてくれてるんだから。
「ほな行ってくるわ。もししんどくなったらいつでも電話してや。ちょっと時間はかかってしまうけど飛んで帰って来るから。な?」
コバくんが優しい笑顔で私に言った。
私はその笑顔を見ると胸がつまる。
「あ、うん。わかった。ありがとう。いつもごめんやで。」
「なにを言うてるん。ごめんはいらんで。ほなな。」
「うん。いってらっしゃい。」
コバくんと私は玄関でキスをした。
コバくんはキスをした後必ず「えへへ」とはにかんだ笑顔を見せる。
私はその笑顔を見てまた胸がつまる。
好きな笑顔なのに。
コバくんを送り出すと気持ち悪さが襲ってくる。
誰かがいると気がまぎれるのか、さっきよりもグッと気持ち悪さが増している。
「あぁ…気持ち悪い…」
私はどこにも追いやれないこの気持ち悪さを持て余し、ソファーに寝っ転がる。
水を飲んでみても、炭酸水を飲んでみても、寝ようとしてみてもこの気持ち悪さからは逃れられない。
「あぁ…気持ち悪い…うぅ…気持ち悪いよぉ…」
ソファーでゴロゴロと体勢を変えながら格闘する私。
早く病院の時間になれ。と心で願う。
病院に行ったからってこの気持ち悪さがおさまるわけではないかもしれないのに。
お昼過ぎ。
私は身支度を整え、お金を多めに持って家を出た。
保険証を持たない私は病院で診察を受けるとき、いつもドキドキする。
それは支払いの金額がいくらになるか?のドキドキもあるけれど、受付で「保険証はお持ちですか?」の問いに「いえ。持っていません。」と答えるのが怖いのだ。
受付の人にどう思われるか?をこの期に及んで気にしている自分がいる。
「保険証も持ってないなんてだらしない女だな」と思われているんじゃないかと感じ、怖いのだ。
実際だらしない女なのだからしょうがないのに。
「はぁ!よし。」
私は少しだけ背筋を正して玄関のドアのカギを閉めた。
部屋を出てから大阪の九条という駅まで大体1時間半ほどかかった。
九条の街は下町のような風情で、商店街が魅力的だった。
駅前の交番に立ち寄り、婦人科の場所を聞く。
交番のおまわりさんは親切に道順を教えてくれたけど、その目線にちょっと首をかしげた。
そのおまわりさんは私が婦人科の名前を言った途端、私のことを上から下までジロジロとみたのだ。
「ありがとうございました。助かりました。」
私はそう伝えて交番をでた。
おまわりさんは「そのあたりはちょっと細くなっている路地なので気ぃ付けてくださいね。」と私の背中に向かって声をかけてくれた。
「あ、はい。ありがとうございます。」
私は振り返り、もう一度お礼を言う。
おまわりさんはにこやかに笑いながら、私を上から下までもう一度見ていた。
「…なんだろうなぁ…」
私は首をかしげながらおまわりさんに貰った地図を片手に、さっき教わった道順を辿った。
賑わっている商店街から数本外れた路地。
人通りがまったくない、細いさびれた感じの路地にポツンと看板が出ている。
『○○婦人科』
古そうな看板、木造の建物、木の扉には模様の入った擦りガラス、真鍮のドアノブは黒く汚れていた。
時計をみるとまだ2時半だった。
「あー…まだ早いな…」
私は1人で呟くと婦人科に背を向け、周りの散策を始めた。
婦人科の路地の一本隣の道に行ってみると、そこには『ストリップ』と書かれた看板や『のぞき』と書かれた看板がちらほらとあった。
よく見ると『ファッション』と書かれた看板も『ピンサロ』と書かれた看板もある。
ほとんど誰も歩いていないそんな道を私がキョロキョロと見回しながら歩く。
店の前には黒服のボーイさんらしき人がちらほら立っていて、私のことをジロジロと見ている。
あぁ…
こういう街の婦人科だったのか…
私の中でなんとなく合点がいった。
私はその道の雰囲気が嫌いではなく、むしろワクワクしていた。
そしてキョロキョロと見ながらうろうろと歩いた。
「ね!おねえさんどこの国の人?どこか店で働いてるん?」
うろうろ歩いていると一人の黒服の男性に話しかけられる。
「え?…日本…ですけど…」
思わず答えてしまう。
この「どこの国の人?」は今まで何度聞かれたかわからない質問だ。
どうやら私は『日本人』には見えないらしい。
「え?!そうなん?!どっかの血ぃはいってるやろー。ほんまに純粋な日本人?」
30代半ばほどのその黒服の男性は、大げさにのけ反って私に聞いた。
その「ほんまに純粋な日本人?」の質問も何度されたかわからない。
私のどこがそんな風に見えるんだろう?
「あ…はい。純粋な日本人です。」
これからの時間にたいして緊張していたからか、私は誰かと話しがしたかったのかもしれない。
思わず立ち止まってしまったのはきっとそんな理由からだ。
「へー!なんやロシア人に見えんくもないなぁ。あそこのストリップにお姉さんそっくりなロシア人の女の子がおるんよー。で?どこで働いてるん?」
黒服の男性は明るく気さくな口調で話しを続けた。
「ロシア人?私が?あははは。どこがロシア人やねん。えーと…滋賀県の雄琴で働いてます。」
私はその黒服の男性にほんとのことを言った。
なんだかほんとのことを言いたかったから。
「え?!滋賀県?雄琴?!てことは…ソープランド?!嘘やん?!ほんまに?!じゃお姉さんソープ嬢ってこと?」
「はい。そうですよ。」
「えーーー?!なんで?なんでこんなとこおるん?」
黒服の男性がまたのけ反って驚いている。
「あー…まぁいろいろあって。」
私は『ソープランドで働いている』は言えるのに『そこの婦人科に来た』ということは言えない自分に驚く。
「そうなんやぁ。お姉さん若いし綺麗からうちで働かん?って誘おうと思ったんやけどなぁ。どう?うちで働かん?お姉さんやったらすぐ売れるやろなぁ。」
ニコニコと笑いながらスカウトをする黒服さん。
まぁそんなことだろうと思っていた。
「いや、ソープ辞める気ないから。ところで、この辺って風俗…街なんですか?」
「まぁちっさいけどな。この辺は外人さんが増えたで。特に最近はロシア人とかヨーロッパ系の女の子が増えたなぁ。ちょっと前まではフィリピンとか韓国とかが多かったけどな。」
「へぇ、そうなんやぁ。景気はどうですか?忙しい?」
私はなんとなく知りたくなってそんな質問をする。
これから婦人科に行って妊娠しているかどうかの検査をするというのに。
「まぁぼちぼちやな。あはは。関西人にその質問したらみんなこう答えるやろー?」
「あはは。まぁそうですねぇ。」
チラッと時計を見るともうすぐ3時だった。
「あ!もう行かなきゃ!じゃ。」
私は黒服さんにそういうと手を挙げてその場を立ち去った。
「おう!お姉さんも頑張りぃー。俺もがんばるわー。」
「あはは。はい。がんばってー!」
「またなー!気が変わったら店に来てー!」
「あははは。はーい!」
私は笑いながら手を振って、さっきの婦人科に向かった。
「はぁ!」
黒服のお兄さんのお陰でちょっとリラックスできた気がする。
あ!
さっきの交番のおまわりさん…
もしかしたら私がどこの国の人かわからずに、そしてこの風俗街で働いている女性だと思って上から下まで見ていたのかもしれない…
なるほど…
今から私が行こうとしている婦人科はこの辺の風俗嬢御用達の病院なんだろう。
病院の前に再び立つ。
緊張しながら真鍮の味のあるドアノブに手をかける。
ガチャ。
ガタガタガタ…
木製のドアとすりガラスが音を立てて開く。
薄暗い玄関。
消毒液の匂い。
緑色のスリッパが左手の棚にいくつか並んでいる。
右手には小さなガラスの窓があり、上に『受付』と書かれた白いプラスチックの札がかかっている。
閉じられたガラスの窓をカラカラと開け、「すいませーん」と声をかける。
「はい。」
1人のおばさんがにゅっと顔を出す。
表情のない顔。
小さな抑揚のない声。
さびれた感じの院内とそのおばさんがやたらとベストマッチで驚く。
「あの…昨日お電話したものですけど…」
「あぁ、妊娠検査の方ですね。ではこちら書いてください。そこに座ってね。」
おばさんは問診票を私に渡すと目の前の長椅子を指してそう言った。
茶色のカバーのかかった長椅子に腰かけ、私はその問診票に記入をした。
そして職業の欄には素直に『ソープランド勤務』と書いた。
書きあがった問診票をガラスの窓からおばさんに渡し、「ちょっと待っててください」という言葉に「はい」としおらしく答えてもう一度長椅子に腰かけた。
「ふぅ…」
このさびれた病院は私にはふさわしい場所だな…と思う。
私はここできっとひどい目に合うんだ。
だってやってることがひどいんだから。
さびれた病院の薄汚れた床の一点をジッと見ながら私は待った。
これから起こることがどんなことなのか想像もつかないまま。
「こちらへどうぞー。」
さっきのおばさんが廊下に出てきて私を呼んだ。
おばさんは廊下の奥にある木のドアをガチャッと開けて私を誘導した。
そのドアの上には『診察室』の札があった。
「よろしくお願いします。」
私は診察室に入り、頭を下げた。
「はいはい。妊娠してるかもしれないって?」
パッと顔を上げると目の前に座っていたのは白衣を着た腰の曲がったおばあちゃんだった。
え?
このおばあちゃんが先生?
腰…けっこう曲がってるみたいに見えるけど…
だ…大丈夫なの…?
「あ…はい。」
「じゃ、とりあえずこれにおしっこ採ってきてくれる?これでまず調べるから。はい、行ってきて。」
白髪に大きな眼鏡をかけたおばあちゃん先生が私に言う。
「あ…はい。」
「おしっこ採ったらトイレにちっさい窓があるから。そこに置いておいて。すぐ検査するから。そしたまた呼ぶから廊下で待ってて。」
若干ぶっきらぼうな物の言い方をするおばあちゃん先生は眼鏡の上の隙間から私の顔をグッと見て「わかった?」と聞いた。
「はい。わかりました。」
私は自分が今どこにいるのかわからないような、私は何をしているのかわからないような状態に陥っていた。
フラフラとなんの感情もなく、言われるがままにトイレに向かった。
つづく。
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