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次の日。
コバくんが私を起こさないようにそーっと起きてきたことに気付き、「おはよう…」と声をかけた。
「あ、おはよう。起こしちゃってごめんやで。寝てて。」
私が酔っぱらって4時ごろ帰ってきても彼は怒らない。
それどころかこんなことまで言うのだ。
「ゆきえ大丈夫か?飲み過ぎた?お水持ってこようか?」
私が遅くまで飲んで帰ってきたことで彼の朝のコーヒーとお弁当はなしになっているのに。
「ううん。ありがとう。…お弁当…ごめん。」
私は少し後ろめたい気持ちをコバくんに伝えた。
「ええよ。また美味しいの作ってな。」
コバくんは私にキスをしながらくったくのない笑顔でそう言った。
「うん。明日は作るね。」
「うん。もう向こうで寝たらええよ。ソファーやったらちゃんと眠れんやろ?まだたくさん寝られるで。俺勝手に行くから大丈夫やで。」
コバくんは私の頭を撫でながら優しく言う。
「うん。じゃ…向こうで寝るわ。いってらっしゃい。」
今度は私の方からコバくんにキスをした。
「うん。ゆきえ。大好きやで。」
「あはは…私もやで。」
寝室のドアをパタンと閉める。
私は布団に潜り込み、まだ酔っぱらって朦朧としている頭で今の状況を反芻する。
あー…
私何してんだろー…
たいして好きでもないコバくんにキスをして、「大好きやで」というコバくんに「私もやで」と言っている。
昨日の富永さんの言葉に興奮しながら。
昨日「好きな人いるの?」と聞かれた時のことをふいに思い出す。
脳裏にはK氏の顔が浮かんだ。
たくさんひどいことを言われたし、殴られたし蹴られた。
ガラスの大きな灰皿まで投げられたのに、脳裏に浮かぶのは笑っているK氏の顔だった。
K氏は私を『最高の女に育てたいんだ』と言って、あらゆることを教えてくれた。
ホテルのバーや高級なレストランに連れて行きマナーを教え込み、こんな小娘を女性としてエスコートしてくれた。
そうかと思えば新宿のゴールデン街に連れて行き、その独特な雰囲気にも私を馴染ませようとした。
私はK氏の知識の多さと所作にいつもときめいていたのだ。
怒られることも殴られることも怖くて辛かったけど、全て私を育て上げるためにやっていることなんだと思っていたし、今もそう信じている自分がいる。
「ゆきえ。お前は最高の女になれる素質があるんだぞ。俺はお前を離さないからな。」
K氏は私がへこたれそうになっている時、絶妙なタイミングでそんな言葉を私にかけた。
私はK氏の元にいることが辛すぎて逃げ出したのに今になってK氏にときめいているのだ。
「…なぁにやってんだかなぁ…」
脳裏に浮かぶK氏との素敵な思い出を噛みしめながら、自分の今やっていることへの矛盾に自虐的な笑いがこみ上げる。
K氏に会うことが怖い。
でも会えるかと思うとときめく。
あの人に殺されるならそれでいいかと思っている自分に驚く。
あの人は久しぶりに会う私になんと声をかけるのだろうか。
狂人的な暴力性を持つK氏のことだから会っていきなり殴り飛ばすかもしれない。
でもそれでもいいと思っている。
私はあの人に700万円を返して「これが私の生き様です。」と伝えるんだ。
そうしなければならないと思っているから。
「…あと少しだな…」
コバくんのことも富永さんのことも考えられず、私はK氏のことと死ぬことばかりを考えながら眠りについた。
しばしの眠りから覚めお店に出勤する。
飲み過ぎて頭がボーっとしている。
そのボーっとした頭のまま、私はフロントのカーテンを開けた。
「おはようございます。」
富永さんがいつも通りどっしりと椅子に座っている。
「あ、おはようございます。今日もよろしく。」
丁寧に頭を下げて挨拶をする富永さんがなんだか可愛い。
「よろしくお願いします。」
雑費の2千円を払って私も頭をさげた。
「酒残ってへんか?ん?」
床にひざまずいている私を椅子に座っている富永さんがのぞき込む。
「あー…残ってるわぁ。昨日はごちそうさまでした。あれからまだ飲んだん?」
そうだ。
昨日…
そうだ。
私は昨日の富永さんの言葉を忘れていた。
K氏のことばかり考えていて富永さんの言葉をすっかり忘れてフロントに来てしまったことを思いだす。
『わしは有里を抱きたいと思ってるで。』
そうだ。
そうだった。
「おう。あれから少しだけな。昨日はありがとうな。楽しかったわ。有里は疲れたやろ?おっさん2人の相手して。」
富永さんは両手をお腹の下で組んで、椅子の背もたれにグッと身体をあずけたいつもの姿勢で私に言った。
ちょっと目を泳がせるのもいつも通りだ。
「そんなことないわ。私も楽しかったで。また行こうな。」
ほんとに楽しかった。
雄琴という村でソープ嬢になった私がこんなに良くしてもらえていいのか?と思う程。
ここに来た当初はどんなひどい目に合うんだろう?といぶかっていたのに。
「ほんまか?また行こう。な?」
「うん。行こうね。」
私は笑いながら答えた。
その時富永さんが小声でこう言った。
「で…どうなん?有里は…抱かせてくれるんかのぉ?」
でっぷりと出たお腹の下で両手を組んだまま首をかしげて聞く富永さん。
…可愛い…
私はその姿を見て、こう答えた。
「…ええよ。富永さんに抱かれるの興味あるわ。」
富永さんは私のその答えにびっくりして目をまるくした。
自分が聞いて来たくせに。
「ほんまか?そうか。うん。そうか。援助交際でええんじゃ。うん。それでいいんじゃ。」
何度も頷きながら「それでいいんじゃ。援助交際でええんじゃ。」と言っている富永さん。
私はちょっと優位に立った気持ちになり、「ふふ」と笑ってしまう。
そしてそんな自分がちょっと嫌だった。
「そしたらいつにするかのぉ。有里が大丈夫な時に声をかけてくれ。わしはいつだってええんじゃから。のぉ?」
「ふふ」とまた笑ってしまう。
こんな私のどこがいいんだろう。
「わかった。今日はちょっとあかんから、また言うね。」
「うんうん。そうやな。毎日大変なんやからな。有里が体調が良くて今日ならええかなぁと思った時でええんやからな。わしはいつまでも待っとるで。な?」
こそこそとフロントで話す私たち。
お店の店長のおじさんと22歳の一ソープ嬢がこんな会話をしているなんて誰も知らないだろう。
「わかった。じゃ今日もよろしくお願いします。」
「おう。今日も頑張ろうな。よし!やるぞ!わしはやるぞ!」
富永さんは拳を握りしめて「やるぞ!」と繰り返した。
「ふふ」とまた笑みがこぼれる。
そんな自分がやっぱり嫌だった。
「有里ちゃーん。おはようー。」
控室に行くと理奈さんが炬燵に寝っ転がっていた。
どうやら2日酔いらしい。
「おはよー。何?残ってるん?」
「残ってるわー。有里ちゃんは?残ってへんの?」
「残ってるわ。頭ボーっとするもん。」
「そうやろー。あれからまだ飲んだん?」
そうだよ。
あれから富永さんがね…
と言いたいところをグッと我慢する。
「そうやで。まだ結構飲んだでー。南さんも富永さんも結構酔っぱらってたわ。まぁ私もやけど。あはは。」
「そうかぁー。でも楽しかったな。有里ちゃんモテモテやったやんか!」
そうか。
そうだね。
「あはは。そんなんめったにないからなぁ。たまにはええやろー。理奈さんはいつもモテモテやもんなー。」
「なんでや。そんなことないやろがー。また行こうなー。」
「うん。また南さんも一緒に飲もうな。」
理奈さんには富永さんのことは言えない。
ほんとは話したいけどこれだけは言えない。
「もうすぐ旅行やなー。はよ行きたいわ。」
理奈さんとの旅行の日程が迫っている。
来週には一緒に温泉旅行だ。
「ほんまやなー。私たちでたどり着けるのかなぁ。あははは。」
「ほんまやな。あははは。」
K氏のことも、富永さんのことも、コバくんのことも、お金のことも、指名のことも、部屋持ちになったことも、死んでしまうかもしれないことも、いろいろいろいろあるけど、今、私は笑っている。
理奈さんと。
「理奈さん、有里さん。」
控室のスピーカーから私と理奈さんを呼ぶ声がする。
「はーい。」
「はい。」
2人で返事をする。
それぞれのトーンで。
「2人ともご指名です。スタンバイお願いします。」
「はーい。」
「はいー。」
返事をして顔を見合わせる。
「ほなやろかー。」
「そうやね。やるかー。」
「あはは」と2人で笑い合う。
「今日も始まるなぁ。」
理奈さんが鏡で自分の髪型を直しながら言う。
「そうやね。今日もはじまりますねぇ。」
私も鏡で自分の化粧を確認しながら答える。
「ほな先行くわ。また後で。」
理奈さんが立ちあがって私に言う。
「うん。いってらっしゃい。あとでね。」
まるで買い物にでも行くかのように控室をでる理奈さん。
私も買い物に行く友人を送り出すかのように「いってらしゃーい」を言う。
これから行く場所は買い物なんかじゃないのに。
「じゃ、私もいってきまーす。」
控室にいる小雪さんとねねさんに言う私。
「はーい。いってらっしゃーい。」
同じように送り出される私は理奈さんと違って内心心臓が飛び出しそうなほどドキドキしている。
でも私は平然とした顔で「いってきまーす。」と言うんだ。
笑いながら。
ちっぽけなプライドを守るために。
今日も私の一日が始まった。
つづく。
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