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さつきさんに引き換え、奈々ちゃん(奈々さんの方から「さん付けはやめてくださいよぉ」と言ってきたので「奈々ちゃん」になった)はなかなか指名が付かなかった。
奈々ちゃんはそれを気にする風でもなく、入った当初に比べるとだいぶ明るくなりいつもケラケラと笑っていた。
そしていつも何かを食べていた。
もともと少しぽっちゃりしている印象だったななちゃんは順調に(?)もっとぽちゃぽちゃになっていった。
「奈々ちゃん、いつも何か食べてるなぁ。」
9月半ばのとある日。
控室のテレビから一番遠い端っこの席で、ガサゴソと袋から何かを取り出してはもぐもぐと口を動かしている奈々ちゃんに向かって理奈さんが笑いながらそう言った。
「へへ。お腹空くんですよ。ヤバいですよね。どんどん太っちゃいますよぉ。へへへ。」
奈々ちゃんはおどけたように笑いながら返事をした。
「何食べてるん?さっきから。」
理奈さんが奈々さんの手元をのぞき込む。
「え?冷凍の枝豆ですよぉ。枝豆ならそんなに太らないかと思って…。へへへ。」
炬燵の下、奈々ちゃんの手元には小さなゴミ箱とそのゴミ箱に立てかけてある大きな枝豆の袋が置いてあった。
「え?!枝豆?ちょ、それ業務用やんか?!あははは。」
理奈さんがそれを見て笑う。
「それちょっとデカすぎやろ?!業務用って!」
私もそれを見てつっこむ。
「へへへ。これ解凍すればすぐ食べられて便利なんすよ。」
いくら枝豆でもこれだけ食べれば太るだろうよ…。
私はその言葉を飲み込んだ。
奈々ちゃんは枝豆を食べ続ける。
ゴミ箱のビニール袋のガサッという音が何度も何度も控室に響く。
枝豆の皮をゴミ箱に捨てている音だ。
奈々ちゃんの手と口は全く止まらずにずっと動いていた。
「はぁー!食べ終わったぁ。」
奈々ちゃんが小さな声で独り言を言った。
「え?!食べ終わったん?!」
その声を聞き逃さなかった理奈さんが驚いて奈々ちゃんの方を見る。
「え?へへへ。食べ終わっちゃいましたぁ。」
奈々ちゃんの横にあるゴミ箱には枝豆の皮の山ができていた。
「すごいな!!すごいな!有里ちゃん!見て!」
理奈さんは驚いて私の方を見た。
「ほんま…すごいな。」
「あはははは。奈々ちゃんおもろいわぁ。」
理奈さんは無邪気に笑っている。
「へへ。お腹いっぱいですぅ。」
「そりゃそうやろ!もうええやろ?もう食べんでええやろ?」
理奈さんが奈々ちゃんに笑いながらそう言った。
「え?今はもういいですよぉ。でももう一袋冷凍庫に入ってるんでぇ。へへへ。」
「えぇ?!まだ食べるかもしれんの?!あははは。そりゃ食べ過ぎやろぉー!おもろいわぁ。」
理奈さんがケラケラと笑う。
「すごいんですよ!枝豆これだけ食べるやないですか。そうするとウンコが全部緑なんすよ。そのまま出るんすよぉ。へへへ。」
「それすごいなぁ!めっちゃ出るやろ?!」
「めっちゃ出ますよ!まだ出る?!ってくらい出ますよー。あはは。でもお腹痛いんすよ。あはは。」
「えー?痛いん?それ嫌やなぁー。」
「でも出ますよ!枝豆おすすめっすよ!」
「でもそんなに食べられへんわ!あははは。」
理奈さんと奈々ちゃんがケラケラと笑ながらしゃべってるのをなんとなく聞いていた。
私のいつも座っている場所は理奈さんと奈々ちゃんに挟まれたところだったから、なんとなく会話の仲間に入っているような感じになっていた。
私は理奈さんのように奈々ちゃんのその姿を見てケラケラと笑えなかった。
何かが狂っているからあんなに食べるんだと知っているから。
業務用の枝豆を短時間で一袋食べ切ってしまうなんて絶対おかしい。
奈々ちゃんの様子を見ていると、さっき「お腹いっぱい」と言っていたのにもうソワソワしてきている。
「食べる」という行為が終わってしまって落ち着かない感じがする。
…過食症だな…
私はなんとなくそんなことを感じていた。
この場所にいるのがストレスになっているのか、毎日の生活がそうさせているのか、私にはわからなかったけど(多分どっちもなんだろうけど)奈々ちゃんの「食べ続ける」という行為が私に刺さる。
しばらくテレビをボーっと観ていた奈々ちゃんが「…眠い…」と言いながらバタンと横になって寝てしまった。
お腹がパンパンになるまで何かを食べてバタンと寝てしまう。
これも過食症の症状だ。
私は過食症だった時期は短いけれど、ほんの少しだけ摂食障害に陥る入口あたりで過食症だった時がある。
その時は自分が「過食症」だなんてわからなかった。
今の奈々ちゃんもきっとそんな感じなのかもしれない。
しばらくいびきをかいて眠っていた奈々ちゃんがムクッと起き上がる。
ドロドロな状態だ。
そして顔がパンパンに浮腫んでいる。
「ふわぁ~…ふぅ…」
ダルそうにしている奈々ちゃん。
「奈々ちゃん顔パンパンやで。大丈夫か?」
私は奈々ちゃんの姿を見てそう言うと「え?へへへ。パンパンっすか?」とヘラヘラと笑って答えた。
その「ヘラヘラ」が痛々しく感じてしまう。
「奈々ちゃん。お家でもそんなに食べてしまうん?」
私は自分のことは棚に上げて、そんな質問をしてしまう。
「え?うーん…そんなに食べてます?だって枝豆だけですよ。お家でもそんなに食べてないですけどぉ。」
奈々ちゃんは自分が異常なほど食べているという自覚がなかった。
これもいつの間にか自分の中でのルールが出来てしまっている証拠だ。
『食べているのは枝豆だからそんなにカロリーは摂っていない。=そんなに食べていない。』という自分の中ででき上がった言い訳からの自分ルール。
「さ。もう一袋解凍しておこうっと。」
奈々ちゃんは独り言を言いながらいそいそと台所へと向かった。
「ええ?!まだ食べるん?」
驚いて反応する理奈さん。
「え?夕飯分ですよぉー。今から解凍しておかなきゃ夜食べられないですもん。へへへ。」
台所から大きな声で答える奈々ちゃん。
「すごいな…。なぁ有里ちゃん。」
理奈さんもさすがに奈々ちゃんの異常さに気付いたらしい。
でもただの大食いとしてしか認識していない。
「ねぇ。身体壊さないといいけどなぁ。」
私は奈々ちゃんのことが心配になっていた。
人の心配をしている場合じゃないのも知っているけど。
「今袋を水に浸けてるんで。邪魔だったらどけて下さいねー。」
奈々ちゃんはヘラヘラしながら控室に戻ってきた。
「理奈さん。理奈さん。」
控室のスピーカーが響く。
「はーい!」
「ご指名です。スタンバイお願いします。」
理奈さんが呼ばれて控室から出て行った。
「いってらっしゃーい!」
「いってくるわぁー」
控室には奈々ちゃんと私だけになった。
杏理さんはお客さんについていて、さつきさんはお休みだった。
「奈々ちゃん。最近彼氏とはどうなん?奈々ちゃんはまだバーで働いてるん?」
奈々ちゃんは週末しか店に来ないこともあって、入店してからあんまり話ができていなかった。
週末はだいたい忙しくていつも控室でもすれ違いになっていることが多かった。
今日は久々に少しゆっくりした日だ。
「えー…と…実は…えーと…」
奈々ちゃんは引きつったニヤニヤ顔で小さな声で話し出した。
「うん?どないしたん?なにかあったん?」
「…えへへ…実は…ですね…」
引きつったニヤニヤ顔だった奈々ちゃんの目に涙が溜まっていく。
「え?!なになに?!どないしたん?!」
私はいきなり涙を溜めだした奈々ちゃんに驚く。
「あ…えへへ…すいません…あの…」
奈々ちゃんはぽろぽろと涙を流した。
「実は…彼のお店に出勤したら…うぅ…」
肩を震わせる奈々ちゃん。
奈々ちゃんは本格的に泣き始めた。
「お店が閉まっていて…それで…連絡も取れないんです…うぅ」
えーーーーー?!!
「え?え?え?え?なにそれ?どういうこと?!」
私は突然始まった衝撃的な話しにのけ反ってしまった。
「一回だけ連絡が取れたんですよ。うぅ…そうしたら…」
「そうしたら?ら?!なに?!」
「『もう借金返せないから逃げた』って…それで…」
「それで?!で?じゃあ奈々ちゃんはもうここで働かなくてもいいんやないの?彼がもういなくなっちゃったんだから。もうお店もないんやろ?!」
奈々ちゃんは彼の為に少しでも援助できればという気持ちでここに来ていた。
奈々ちゃんの借金ではない。
そして彼に強要されてここに来たわけでもない。
「…それが…一部私の名前で借金していたみたいで…その分は申し訳ないけど頼むって…言われちゃって…」
はぁーーー?!
「なんっやそれっ?!はぁ?!なにそれ?!はぁーーーー?!!」
猛烈に腹が立った。
もうなんとも言えない怒りだった。
「うぅ…だからここでなんとかしないと…」
「え?なにそれ?もうどうにもなんないの?私知りませんって言えばいいんやないの?」
なんでこの子が彼の借金背負わなきゃならないの?!
しかも自分がやりたかった店を出しての借金を彼女に返してもらうって…
まだ20歳だよ!
「…私のハンコも押されてるみたいだし、もう取り立ての人からTELかかってきてるし…逃げられないみたいです。」
「いくら?いくらあんの?借金。」
「…全部で300万…です…」
もーーー!!
「…でもそれはいいんです。ここに来たのはもともと彼の為やったし、借金一緒に返せたらって思ってたし…でもなんも逃げんでもと思って…。それがなんか悲しくてね。へへ。」
奈々ちゃんは私が怒り心頭している姿を見て、わざと「へへ」と言って笑いながら泣いた。
「…まったく連絡とれんの?」
「はい…。へへへ。もう携帯解約してるみたいで。」
奈々ちゃんの「へへへ」が痛い。
「で…どうすんの?ここで返していくの?それでいいん?」
どうしても納得できない。
私は自分で決めてこうなった。
700万円をK氏に返さなければ気が済まないと思ったから今こうなっている。
でも奈々ちゃんは違う。
ここに来たのは本人の意思かもしれないけど、借金は勝手に背負わされてしまったのだ。
そしてその借金をした本人はとんずらしたのだ。
「…もうしょうがないかと思って。なんとかここで返そうかと思ってます。へへへ。」
「そうなんや。うん。そうかぁ。」
私は奈々さんにそう返事をしながら泣いていた。
涙が勝手に出てきてしまったのだ。
「…え?なんで?なんで有里さんが泣いてるん?」
戸惑う奈々ちゃん。
「うん…なんやわからへん…。ごめんやで。」
どうにもならないことに憤っていた。
こうなってしまったのは奈々ちゃんのせいでもあるんだと言い聞かせていた。
でも…
今ここに20歳の女の子が不本意な借金を背負わされている。
そしていろんなストレスから過食症になろうとしている。
その本人は自分がストレスから『過食症』になろうとしていることに気付いていないという現実。
なんでこうなった?
なんで?
私は奈々ちゃんの前でぐずぐずと泣き続けた。
「…有里さん。泣いてくれてありがとう。へへへ。」
鼻をぐずぐずさせて奈々ちゃんがそう言った。
「ううん…。そうやないねん…そうやないねんて…。なんかごめんやで。うぅ。」
奈々ちゃんの為に泣いている訳じゃない。
そうじゃないんだ。
「…奈々ちゃん…がんばろうな…」
私には泣きながらそう言うのが精一杯だった。
つづく。
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