100
シャトークイーンに入って1ヵ月が経とうとしていた。
特に大きないざこざもなく、嫌なお客さんに当たることもなく、私は比較的安定した1ヵ月間を過ごすことが出来た。
もちろん毎回お客さんにつく前には吐きたくなるほどの緊張はするのだけれど。
小林さんは休みの度に家に来ていた。
火曜日の夜に来て、木曜日の朝までいるのがなんとなく普通になっていっているのが少しだけ不安だった。
にもかかわらず、私は小林さんが来ればゴハンを作り、お弁当を作って送り出していた。
そして私の食べ吐きは相変わらずだった。
そんな7月の終わりのある日。
私が休み明けに出勤するとまどかさんの姿が見当たらなかった。
あれ?生休かなぁ…
私はそんなことを思っていた。
生休とは『生理休暇』のことだ。
ソープ嬢は全員ピルを服用していているので生理のコントロールがきく。
みんなだいたいは1ヵ月に一回、4日間の生理休暇をとる。
生理休暇が始まる2日前からピルを飲むのを止めるとピタリと2日後に生理がきて、そして見事に4日間で生理が終わる。
ピルを服用していても1ヵ月に一度はちゃんと生理をこさせないと身体がおかしくなるらしい。
でもお金に困っているソープ嬢は生休をとっている余裕がなく、ずっと服用し続けて生理がずっとこないようにしていたりもするらしい。
「まどかさん、生休ですか?」
私は控室にいた杏理さんに聞いた。
「いや…有里ちゃんは…昨日いてへんかったな…」
杏理さんがちょっと戸惑った顔をした。
「え?なんかあったんですか?」
「うん…。昨日な、まどかちゃん救急車で運ばれたんよ。」
杏理さんが暗い顔をしてそう言った。
「え?!救急車?!え?!どうしたんですか?!」
私はびっくりして杏理さんに大きな声で聞いてしまった。
「…なんかな、お客さんについた後控室に戻ってきてな、入ってきてすぐ座りこんだんや。入ってきてすぐやで。そしたら変な呼吸になってな。めっちゃ苦しそうやったわ。そんでな…」
杏理さんが言うにはその後倒れこんでしまい、呼吸がうまくできなくなってしまって富永さんが救急車を呼んだらしい。
「怖かったわぁ。死んでしまうんやないかと思ったわ。」
杏理さんは震えるような仕草をしながらそう言った。
「有里さん。有里さん。」
控室のスピーカーから富永さんの声が聞こえた。
「はい。」
「ちょっとフロントまできてくれんか。」
「はい。」
さっき雑費を払いにフロントへ行った時は富永さんはまどかさんの話しはしなかった。
まどかさん…大丈夫かな…
なんだか胸騒ぎがする。
「失礼します。」
私はそう言いながらフロントの横のカーテンを開けて中に入った。
「おう。…杏理からなんか聞いたか?」
「あ、はい。まどかさんのことですよね?大丈夫なんですか?!」
「うん、まぁ…な。過呼吸じゃ。前にもあったんやけどな。」
過呼吸…。
あぁ…苦しかっただろうなぁ…。
「前のは結構すぐにおさまったんや。紙袋持たせてな。あれは吸い過ぎてしまうのがあかんからな。でも今回はひどかった。救急車呼ぶしかなかったなぁ。まぁ過呼吸で死ぬことはないけどな。」
富永さんは冷静に事の顛末を私に話した。
「それで?どうしたんですか?」
「うん。まぁ病院着いてしばらくしたら治まってな。タクシーで帰したんじゃ。」
「はぁ…。よかったぁ…」
「まぁな。でも今日になって連絡がなくてな。」
「え?連絡がない?」
「そうや。そうじゃからこっちから連絡したんじゃ。そしたらな…」
「大丈夫だったんですか?またひどくなってたとかじゃないんですか?」
「いや、そうやないんよ。」
「じゃあ…」
「辞めたい言うんじゃ。」
えーーーーーーー?!!
「辞める?!なんで?!」
「わしもそう聞いたんじゃ。でもなTELの向こうで泣くばかりなんじゃ。」
「泣いてる?なんで?!」
「わからん。何聞いても辞めるばぁ言いよるんじゃ。有里、なんか心当たりあるか?ここ最近おかしかったとかないか?」
「えー…」
私は最近のまどかさんの様子を思い返してみた。
でも…
特に思い当たるふしは無いような感じがした。
「え…と、特にないですねぇ。高橋さんがまた何か言ったとかじゃないですよね?」
「それはないと思うんじゃ。高橋とまどかは接触してないと思うんじゃ。」
「そしたら…なんでやろう…」
「過呼吸起こす前に入ってたお客さんも常連さんでまどか指名の人やったし、その前の人やって優しいお客さんやったんやけどなぁ…」
「そうなんですか…うーん…」
二人でしばし考える。けれども何も思い当たることは浮かばない。
「ま、考えてもしゃーないか。こっちからも連絡はとっていくつもりやから。でな…まぁ控室みてもらえばわかるとおり…」
「…はい。」
「今日は2人や。」
「…はい。」
「すまんの。新しい子も一応入る予定ではあるから。もうすこし辛抱してくれ。な?頼むわ。」
富永さんは椅子をこちらに向け、ペコっと頭を下げた。
「新しい子入るんですか?」
「おう。一応入る予定ではあるけどな。早ければあさってやな。」
「え?あさって?どんな子ですか?」
「わしもよぉ知らんのや。まぁでもまだ予定やからな。とりあえず今日は2人や。明日からは3人やな。」
「はぁ…。わかりました。まどかさんのこと、なんかわかったら教えてくださいよ。」
「おう。なんかわかったら言うからな。頼むわ。」
2人か…。
女の子が2人しかいないソープなんてあるんだろうか。
私は杏理さんしかいない控室にそっと帰った。
「有里ちゃん。なんか聞いた?」
杏理さんがテレビから目を離し、私に聞いた。
「はい…昨日のまどかさんのこと聞きました。あと…辞めるって言うてることも…」
「なぁ…どないしたんやろなぁ…なんか…淋しいなぁ。2人って淋しいやろ?」
「はい。ほんまに。」
「有里ちゃんが来る前はしばらくこうやったんやで。まどかちゃんと2人の時も結構あってなぁ。…辞めてしまうんやろか…」
杏理さんは淋しそうだった。
杏理さんとまどかさんは人数が少なくなってもここに留まった仲間だ。
理奈さんは指名もトップだしシャトークイーンの別格のような人だ。
仲間という感じではない。
杏理さんとまどかさんはいろんな意味で相通じるとこがあったのだろう。
「杏理さん。杏理さん。」
スピーカーから声が聞こえる。
「はい。」
杏理さんが暗い声で返事をする。
「お客様です。スタンバイしてください。」
「はい。」
杏理さんは返事をした後「はぁ~…」と大きなため息をついた。
「なんか…入りたくないわぁ…」
杏理さんはガクンと頭を下げておでこを炬燵のテーブルの上に乗せた。
「そう…ですよねぇ…」
私にはそんなことしか言えなかった。
「…こんなこと言っててもしゃーないか…じゃ、行ってくるわ。」
しばらくして杏理さんはパッと顔をあげてダラダラと控室を出て行った。
「いってらっしゃい!」
パタンとドアが閉まると控室には私1人になった。
シーン…
今までも控室に1人になったことはある。
でも…なんだか今日の『1人』は違う。
まどかさん…
誰にも言えないことがあったのかなぁ…
いつも明るく笑っているまどかさん。
演技じみたところはあるけれど、舌っ足らずなしゃべり方と人懐っこさは嫌いじゃなかった。
「有里ちゃん、有里ちゃん、」といつも話しかけてくれるまどかさんに何度救われたことか。
ソープ嬢で幸せになった人っているのかな…
まどかさんのことを思っていた私はいつしかそんなことを考えていた。
みんないろんなことを抱えてここにきている。
その『抱えたもの』を綺麗に降ろせた人っているんだろうか。
…私はこの『抱えたもの』を降ろせる日がくるんだろうか…
「…はぁ…」
切なさがこみ上げる。
私はいつしかソープランドという見えない籠の中に入りこんで抜け出せなくなってしまっているんではないか?と不安になる。
まどかさんと私の違いなんて何もないじゃないか。
私ももしかしたらこの世界に埋没してしまうかもしれない。
…これからどうなるかなんて誰もわからないんだ…
私は1人になった控室で静かに落ち込んでいった。
…理奈さんに会いたい…
早く明日になって欲しい。
早く理奈さんと話したい。
「有里さん。有里さん。」
スピーカーから呼ぶ声が聞こえる。
「はい。」
気だるく返事をする。
「ご指名です。スタンバイお願いします。」
「はい。」
鏡で自分の顔を見る。
酷い顔だ。
なんとか化粧でごまかし、ニッコリと笑ってみる。
「うん…。がんばろう…。」
今の私の気分なんてお客さんは知ったこっちゃないことだ。
高いお金を払って楽しみに来てるんだから。
私はぺちぺちと自分のほっぺを軽く叩き、「さあ!行くか!」と大きな声で言った。
1人だとこんなこともできるのねーとフッと笑いながら。
今日も私は自分の気分を隠して笑顔を作る。
そしてその「作った笑顔」はいつしか「本当のような笑顔」になっていくんだ。
今日も私は私をごまかす。
接客業とはそういうものだから。
そしてソープ嬢は究極の接客業だと思っているから。
まだまだ経験の少ない私は必死になって演技をする。
必死にソープ嬢になろうとする。
「はぁ…緊張する…」
震える手、荒い呼吸、吐き気…
私が一番必死になっている時間。
もうすぐ私の目の前にお客さんがやってくる。
つづく。
続きはこちら↓
はじめから読みたい方はこちら↓