70
木曜日。
シャトークイーン初出勤の日。
昨日は結局3回も食べ吐きをしてしまった。
泥のように眠っては起き、空腹感を感じ食べる。
食べては吐く。
また泥のように眠っては起きて、食べては吐く。
止めることのできない地獄のループ。
最後はビールとウイスキーを飲んでふらふらになりながら眠りについた。
起きたら朝の10時だった。
「…頭…痛い…」
こういう日はだいたい頭がガンガンと痛んだ。
当たり前だ。
あんなめちゃくちゃな時間を過ごしたんだから。
胃がキリキリと痛む。
顔が浮腫んでいる。
「…はぁ~…」
溜息をつき、お水を飲む。
そのままボーっとテレビを眺めながら過ごす。
時間は刻々と過ぎていく。
「…お味噌汁…飲みたい…」
私は独り言を言いながら立ち上がった。
ワカメと豆腐のお味噌汁をたくさん作り、お腹が満たされるまで食べた。
お味噌汁なら太る心配はない。と思う。
お腹が満たされるとまたボーっとしてしまう。
もう11時だ。
シャトークイーンからのお迎えが11時50分には来てしまう。
もうシャワーを浴びて用意をしなければいけない時間だった。
「…行きたくないな…」
頭は痛いし浮腫んでるしお味噌汁でお腹がいっぱいだ。
昨日はあんなにぐちゃぐちゃなことしてた私が、シャトークイーンのような綺麗な高いお店で働けるはずがない。
今だって髪はぐちゃぐちゃだしよれよれのTシャツだしこんなにみすぼらしい姿だ。
私なんかが通用するはずがない。
「…はぁ…用意するか…」
行きたくないけど今更断る勇気なんてない。
せっかく原さんがつないでくれたんだし、富永さんにもお酒をごちそうしてもらっちゃったし。
私は重い腰をあげてシャワーへと向かった。
熱いお湯が気持ちいい。
頭皮やほっぺに当たるお湯が浮腫みを少し和らげてくれるような気がする。
シャワーから出て急いで洋服を選ぶ。
さっきまでのぐちゃぐちゃな私には似つかわしくない綺麗なワンピースを選んだ。
ドライヤーをかけ、お化粧をする。
だんだんと意識のモードが変わってくる。
綺麗な服を着て化粧をすると不思議と背筋が伸びてくる。
鏡にに映した自分の姿は、さっきのぐちゃぐちゃな自分とはまるで違っていた。
個室で使う物が入った段ボールを玄関に準備し、いつお迎えが来てもいいようにしておく。
お店で使う洋服と替えの下着をバッグに入れる。
さっきまでドロドロでぐちゃぐちゃだった私とは別人のようなテキパキと動く自分がいた。
ププッ…
窓の下で小さなクラクションが聞こえる。
窓から顔を出すとシャトークイーンからの迎えの車が止まっていた。
富永さんが車から降りてくる。
「富永さん!上がってきてください。二階です!」
窓から声をかける。
上を向いた富永さんが手をあげた。
「おー。おはよう。今行くわー。」
雄琴村に近づいていく車の中、私はだんだんと緊張感に押しつぶされそうになっていた。
後部座席から琵琶湖を眺める。
この風景をもう何度見ただろう。
「有里。今日は行ったらすぐに研修をすると思うで。」
ドキッ。
研修…か…
「…はい。確か社長がやるんですよね?…どんな方ですか?」
男性からの研修…
しかも社長。
私のドキドキはどんどん強くなる。
「おー。社長なぁ…。まぁ良いおっさんやで。あははは!みんなクマさんって呼んでるわ。」
クマさん?
社長なのに?
「まぁおいおいその辺の話もしたるわ。どの娘も社長から研修受けてるし、慣れてる人やから大丈夫やで。優しいで。」
私はその言葉を聞いて少し安心した。
「あ、そうだ。理奈さんって方がナンバー1なんですよね?今日はいらっしゃいますか?」
「おー!理奈な。上田から聞いたんか?今日は休みなんや。」
「えー…そうですかぁ…残念。」
「理奈と有里はなかよぉなれそうな感じやなぁ。ええ娘やで。あいつみたいなソープ嬢はなかなかおらんと違うかなー。」
なかなかいないソープ嬢…
私はますます理奈さんに興味を持った。
「とりあえず荷物運んでおくわ。高橋が待っとるからそのままお店入っとって。」
シャトークイーンに着いた。
お店を見上げる。
「…よし…」
小さな声で呟いた。
緊張で身体が強張る。
私の勝負がまた始まるような気がして何度も胸の中で言葉を反芻する。
『運だめしだ。私がひどい目に合う運命ならそうなるだけだ。殺すなら殺しやがれ。
痛い目に合う運命なら合わしてみやがれ。これは私の人生をかけた運だめしだ。』
ウイーン
黒いシールドの張られた自動ドアが開く。
「おはようございます。待ってましたよ。」
高橋さんがわかりやすい作り笑顔で私を迎えた。
「おはようございます。よろしくお願いします。」
私は深々と頭を下げた。
「クマさん…いや、社長がもうすぐ来ますんで、とりあえず控室と個室を案内します。こっち来てくれる?」
「はい。」
高橋さんは私を誘導して店を案内した。
「ここが有里さんのロッカーね。で、ここに座椅子がおいてあるから好きなところ座って…」
フロントからまっすぐ奥に進むと黒いカーテンがかかっている。
そのカーテンをくぐるとスタッフ用のトイレがあり、そのまた奥に進むと右に曲がって廊下が続いていた。
その廊下沿いに3つ扉があり、そのうちの真ん中の扉が控え室に入る扉だった。
控室は「花」よりも広々としていた。
扉を開けると、ちょっと小上がりのようになっている和室が左手にひろがっていて、
右手の部屋には会社で使う様なシルバーの無機質なロッカーが上下に分かれて壁にくっつけて8つ並んでいた。
ロッカーの置いてある部屋から出ると6畳ほどの綺麗な台所。
ガラス戸のついた棚には数品のおかずが並べてある。
和室は12畳ほどで、炬燵が2つ並べてある。
そのまわりに2つだけ座椅子が置いてあった。
もう2人の先輩が出勤しているらしい。
ロッカーが置いてある方の部屋は10畳ほどの広さで、和室とはぶち抜きになっていた。
そのロッカーが置いてある部屋には座椅子が積み上げて置いてあり、出勤したらここから自分の座椅子を持っていく。
テーブルがロッカーの横の壁にくっつけておいてあり、その上にはカラーボックスを横にした本棚があった。
たくさんのマンガや小説といっしょにたくさんの風俗誌が積み上げられていた。
私はその積み上げられた風俗誌に目をやった。
「あ、これね。うちの娘が大きく載ってるんですよ。ほら!」
それを見て高橋さんが得意げに言う。
高橋さんが開いたページを見ると、一人の女性が潤んだ眼差しをこっちに向けているアップの写真が目に入った。
『まどか』とその写真には書いてあった。
『シャトークイーンのマドンナ!まどか♡』
写真の横にはそんなフレーズが大きく載っている。
「有里さんも取材受けてくれたらありがたいんやけどなぁ~。もし受けてくれる気になったらいつでも言うてね。」
私はそのページを見て驚いていた。
この店に風俗誌に堂々と載っている娘がいることに。
そして私も私がOKを出せばここに載ることもできることに。
「いや…私は無理です。あはは…」
そんなことをしたら一瞬でK氏にバレてしまう。
「目をさ、こうやって隠して載るとかでもいいんやからね。」
高橋さんは自分の右腕を目の上に乗せてやってみせた。
「あはは…あぁ…いやぁ~…」
「ま、今はいいわ。その気になったら言うてな。指名もどーんと増えるからさ。雑誌に載るとな。」
高橋さんはニコニコしながら私に勧めた。
「じゃ、次は個室行きましょう。」
私はとりあえずロッカーに荷物を入れ、高橋さんについて二階の個室に行こうとした。
その時、台所にある裏口のドアがガチャっと開いた。
「おっはようさーん。」
鼻の下にも顎の下にもほぼ白髪のひげをはやしたおじさん?おじいさん?のような男性が入ってきた。
「あ、おはようございます。」
高橋さんが挨拶をする。
「有里さん。あれが社長です。」
高橋さんは小声で私に言った。
「あ…あの方が…あ!おはようございます!」
私は慌ててその男性に挨拶をした。
「ん?この子?新人さんって?」
その男性は聞き取れないくらいのかすれた小さな声でそう言った。
「はい。有里さんです。」
「有里です!よろしくおねがいします。」
男性は「うん。」と言いながら靴を脱ぎ「今日のおかずはまずそうやなぁ。」とおかずを見て言った。
「クマさん、これから研修大丈夫です?」
高橋さんが聞く。
「うん?うん。その為にきたんやないかぁ。なぁ?有里。」
少し曲がった背中。
白髪交じりの髪の毛は無造作ながらにもなんとなくかっこよく整えられている。
白いシャツにアジア柄の品の良いベスト、薄いブラウンのズボンはバランスよくタッグが入っていておしゃれだった。
この人…なんかおしゃれだな…
私はそんなことを思っていた。
口ひげと顎ひげが豊富な口元を見る。
あの口元で研修をするんだ…
あの豊富なひげが私のカラダに触れるのってどんな感じだろう?
ちょっと楽しみになってきた。
「じゃ、もうちょっとしたらやる?」
男性はひょうひょうとした様子でこちらを見た。
かすれた小さな声とひょうひょうとしたその男性の雰囲気が私の緊張を少しだけ和らげた。
シャトークイーンでの研修がもうすぐ始まる。
つづく。
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