69
水曜日。
今日小林さんは仕事が休みだと言っていた。
二人でダラダラとベッドで過ごし、起き出したのは昼過ぎだった。
順番にシャワーを浴び、テレビをつけてコーヒーを飲む。
「ゆきえ、…って…あは…なんか照れるな。」
小林さんは私を呼んでから照れくさそうにそう言った。
その様子は見ていてほほえましかった。
「ゆきえ、お腹空かへんか?」
小林さんが優しく聞いた。
私は「うん、そうやね。」と言った。
小林さんは私と散歩がしたいと言った。
歩いてゴハンを食べるお店を探そうと楽しそうに提案した。
私はそれはなんだか幸せそうでいいなと思い、その提案を受け入れた。
二人で手をつないで歩く。
小林さんは嬉しそうにこっちを何度も見る。
私はそれに答えるようにニコッと笑顔を向ける。
「ゆきえー♪んふふふふ。なんか…嬉しいなー」
照れくさそうに何度も私の名前を呼ぶ。
その度にニヤニヤと笑う小林さん。
「あははは!なにぃ~?何度も何度もぉー。気持ち悪いでぇ~!」
私は小林さんのその感情に答えることが出来ず、ツッコミを入れることでごまかした。
誰かとちゃんとお昼ご飯を一緒に食べるなんて久しぶりだ。
いつも私はお昼ご飯を“ちゃんと”食べると「食べ吐き」モードに入ってしまい、お家で一人でいる時は地獄絵図になってしまう。
今日は大丈夫かな…
お蕎麦屋さんに入ってから後悔した。
家でゴハンにしたら私はなんとなく食べたふりができたのに。
お蕎麦じゃ一人でどれだけ食べたかすぐにわかってしまう。
私は悩みに悩んで「山菜そば」にした。
一番カロリーが低そうだから。
お腹がグーと鳴った。
お蕎麦のお出汁の匂いが私の空腹を刺激する。
「おー!うまそうやなー!」
小林さんは天ぷらそばとミニ親子丼のセットを頼んでいた。
私は「天ぷら」と「丼物」のセットを頼む人の気持ちがわからない。
小太りの小林さんはその体型を気にすることなく、なんの躊躇もなく、そんな高カロリーのものを頼むのだ。
私はその様子を見て「いいなぁ」と思った。
うらやましかった。
一口山菜そばを食べると私の食欲は止まらなくなった。
ちょっと食べて残そうと思ってたのに、あっという間に食べてしまった。
私はお汁も全部飲み干し「はぁ~」と言った。
「美味しかった?」
小林さんはその様子を見てニコニコとしていた。
汗だくで親子丼をほおばる小林さんはとても幸せそうだった。
「…うん。美味しかった!」
ほんとに美味しかった。
お蕎麦を一杯食べきるなんてほんとに久しぶりだった。
「行こうか。」
全部食べ切り、お水を飲んだ小林さんがそう言った。
「うん。」
お会計は小林さんがしてくれた。
私は素直に「ごちそうさまでした。」と言って手をつないだ。
「うん。こんなんでごめんやで。」
小林さんは私から手をつないだことが嬉しかったらしく、また照れた顔をした。
マンションへの帰り道「少し遠回りして帰ろう」と小林さんが言った。
「ゆきえ、この辺り歩いて回ったことあるん?」
「ううん。ないで。」
「じゃ、探検な。」
小林さんは終始ニコニコと嬉しそうだ。
「うん。探検ね。」
私はお蕎麦でお腹がいっぱいになってしまったことに罪悪感を感じ始めていた。
でも今は小林さんが一緒だからどうにもできない。
「探検」でなんとか気を紛らわそうと思っていた。
「あー、こうなってるんやなー」
「おー!すごい家やな!」
「あれ?あそこの家、めっちゃデカい犬飼ってるで!」
小林さんは「探検」を楽しんでいた。
そして私を少しでも楽しませようとしていた。
「ほんまや!」
「すごいなぁ」
「うん!そうやねー!」
私は消えない罪悪感と闘いながら小林さんの「探検」になんとか乗っかっているフリをした。
心のなかでは『早く一人になりたい!』と切実に思っていたけど。
「今日は…何時ころ帰るの?」
「探検」を終え、マンションに帰り着いた時、私はちょっとだけガマンが出来ずにそう聞いてしまった。
「ゆきえ何か用事があった?ごめん!俺、なんの確認もしないで。楽しすぎて。」
小林さんが焦って私に聞いた。
「え?…いや」
私はなんて答えてようか悩んだ。
このお腹がいっぱいになってしまった罪悪感から逃れたいだけだから。
いますぐ「食べ吐き」をしたいだけだから。
「明日…から新しいお店に行くから…ちょっと一人でゆっくりしたいかな…なんて思っただけなんだ。あ!でも別にいいの。」
一人になりたいと言ってしまった。
小林さんが傷つかないだろうか。
「…あー…そうかぁ。…ごめんやで。俺がいたらゆっくりできひんもんなぁ。」
小林さんはすごく淋しそうな顔をした。
私の胸が少し痛んだ。
でも…このお腹がいっぱいなことの方が私にとっては切実なことだった。
早く、早く吐かなきゃ太ってしまう。
このお腹の中のものを早く全部出してしまわなきゃ。
「あー…ごめんね。また今度ゆっくり来て。」
『別にいいの』なんて言っておいて、やっぱり帰ってほしかった。
小林さんを傷つけてもいい。
私は一刻も早く吐かなければならないんだから。
「…また来ていいん?いいの?」
「うん。また来て。」
「ほんま?」
「うん。ほんま。」
「俺、ゆきえとずっと一緒にいたい。」
「うん。ありがとう。」
「…うん。」
「うん。」
「…ほんまは…今日もまだずっと一緒にいたいねんけど…」
「うん…」
「…でもガマンする…」
「…うん。」
「…今日は帰る…」
「…うん。」
「…抱きしめていい?」
「…うん。」
小林さんは私をギュッと抱きしめてキスをした。
そして名残惜しそうに帰って行った。
私は扉をバタンと閉めた後、すぐに冷蔵庫へと向かった。
とにかく口に詰め込めるものを探し、次々と口に入れた。
お水をガブガブ飲み、昨日の残りのハンバーグや肉じゃがを口に詰め込み飲み込む。
とにかくお水と食べ物でお腹をパンパンにしなければ吐ききれない。
早く!早くしなきゃ、さっきのお蕎麦が消化されてしまう!
また太って醜くなってしまう!
お腹がパンパンなって限界が来たところでスプーンを持ってトイレに駆け込む。
胃を絞るように最後まで吐ききる。
もう消化が始まっている細くなったお蕎麦を嘔吐物の中に確認して少し安堵する。
「…はぁはぁ…はぁはぁ…」
トイレットペーパーでぐちゃぐちゃな顔をぬぐってトイレに倒れこむ私。
よろよろと立ち上がり、洗面所で顔と口をゆすぐ。
こんな私に幸せになる権利なんて
ない。
ソファーに倒れこみ、泥のように眠る。
さっきまで小林さんと一緒にいて可愛く振る舞っていた私はもうどこにもいない。
また死にたくなる。
死ぬことなんてできないくせに。
つづく。
続きはこちら↓
はじめから読みたい方はこちら↓