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「アリンコはいくつなんや?」
車に乗り込むとボーイの上田さんが聞いてきた。
上田さんはよれっとした白いワイシャツを着ていて全体的にだらしない印象を受けた。
歳は30代後半か40代前半。
髪は程よい長さではあるけれど特にセットしているでもなく、良く言えばナチュラルな感じだった。
中肉中背の普通な感じの体型。
顔はどこかをちょっといじれば男前の部類に入るような顔立ちをしていた。
上田さんはくだけた言葉を使う人だけど、どこか暗い印象を受ける男性だった。
「21です。」
私は車の後部座席で静かに答えた。
「えっ?!わっかいなぁ~!ええなぁー!俺も戻りたいわぁ。」
上田さんはバックミラーで私を見ながらもの大袈裟なほど驚いていた。
「で?いつからくるんや?」
「木曜日からです。よろしくお願いします。」
「おー。こちらこそよろしくなぁ。富さんの紹介やって?」
「あ、はい。」
あれ?
今日富永さんを見かけなかったな…
挨拶したかったのに。
「あの…今日富永さんは…?」
「あぁ。富さんは今日は遅出やってん。」
えー。
「明日待っとるで」って言ってたのに!
「アリンコは売れっ子になりそうやなー。」
上田さんがまたマックミラー越しに私を見てそう言った。
「え?!いやいやいや…ありがとうございます…」
そんなことを言われるなんて。
お世辞だろうけど嬉しかった。
「うちにな、理奈って子がおんねんな。その子がずーっとナンバー1やねんな。その理奈って子ときっと仲良くなれると思うでぇ。」
理奈さん…
ずっとナンバー1…
「そ…そうなんですか?ずっとナンバー1?…すごいですね!!」
「そうなんよ。うちは理奈でもってるようなもんやからなぁ。あ!これは他の子ぉには内緒やで!」
「えー!すごい…理奈さんはもうどれぐらいシャトークイーンにいらっしゃるんですか?」
「理奈かぁ…そうやなぁ…もう4年になるんかなぁ。」
「4年?!その間ずっとナンバー1なんですか?!」
「そうやなぁ。もちろん来てすぐにはナンバー1にはなってへんけどなぁ。まぁでも早かったわな。それからずーっとや。」
4年間変わらずずっとナンバー1…
それはすごい。
「アリンコよりちょっとだけ年上やけどまだ若いしな。気ぃが合うと思うわ。」
私は早く理奈さんと会いたくなっていた。
どんな人なんだろう?
どういう経緯でここに来たんだろう?
ずっとナンバー1の方は何が違うんだろう?
「着いたでー。じゃ、これからよろしくなぁ。」
上田さんは後部座席のドアを開けて私に言った。
「はい。よろしくお願いします。」
「わからんことあったら何でも聞いてや。俺もわからんけど。わはははは!」
「なんですか、それ?!あはははは!」
面白い人がボーイさんでよかった。
どこかうす暗い印象はあるけど上田さんは多分いい人だ。
私はもう一度上田さんにぺこりと頭を下げて買い物に繰り出した。
男性の為にお料理を作るのも、誰かの為に買い出しをするのも、ものすごく久しぶりだった。
「えーと…まずは…」
書いてきたメモを見ながらスーパーをうろつく。
頭の中はこれから帰ってとりかかる料理の手順でいっぱいだ。
「次は…お酒…か」
ブツブツ言いながら歩き回る。
あれ?
私…
何か…
…楽しい…かも…
うっすらとそんな気持ちが湧いてくる。
でもそのすぐ後にそれを打ち消す自分がいた。
いやいやいやいや。
楽しいはずがない。
それに私はこういうことを楽しんじゃいけないヤツなんだから。
そんな権利なんてない女なんだから。
「楽しい」なんて感情が湧かないようにただ淡々と買い物をする。
そして私はまた頭の中をこれからの料理と掃除のことだけでいっぱいにした。
思いがけず大量になってしまった食材とお酒を抱えてマンションに戻る。
「さ!やろう!」
一人で気合を入れて掃除を始める。
男性を招き入れるんだからちゃんと綺麗にしなくては。
掃除機をかけ、床を磨く。
洗面台とトイレもピカピカにした。
お風呂…?
うーん…
ま、トイレに入れば見えてしまうんだから洗っておこう。
そう決めた後、「入るのかな…」と夜のことを考えてしまう。
掃除を終え、ようやく料理にとりかかる。
今日のメニューは和風ハンバーグと肉じゃがとキノコのソテーを乗せたサラダと春雨のスープだ。
料理を黙々と作る。
常に次の手順を考えながら野菜を切ったりお肉をこねたり炒めたり煮込んだり…そんなことをしていると、自分が今どこにいて、何をしているのかがわからなくなる。
私は今、ただ料理を作ってるだけ。
そんな瞬間が何回もやってくる。
「私…何やってるんだろう?」
たまにふと我に返る。
私は今ソープ嬢で、K氏の元から逃げ出した卑怯者で、殺されるかもしれなくて、家族とも自ら音信不通にしている親不孝もので、友達もいなくて、彼氏もいなくて、来年の3月までに700万を貯めて返さなければいけないんだ。
「…こんなことやってていいのか…?」
作りかけのハンバーグ。
もう煮上がった肉じゃが。
お水に浸けてあるレタスはもうシャキシャキだ。
これは私には最も似つかわしくない光景なんじゃないか?
全てを捨ててしまいたい衝動に駆られた。
そんなときTELが鳴った。
小林さんからだった。
「はい。もしもし?」
『こんなことやってていいのか?』と思っていたのが嘘のようにTELに飛びつく。
心が浮き立っている。
「有里ちゃん?今日、どない?」
小林さんの明るい声。
私の気持ちも明るくなる。
「え?どない…って?どういうことですか?」
私はまだ関西弁に慣れないでいた。
TELでのこういうやりとりは特によくわからない。
「あははは!どない?っていうのはー…もういいや!今日行ってもええの?ほんまにええの?」
「あー、そういうことかー!ええですよ!もうゴハン作ってますよ!」
「ほんま?!やったーーーー!!行く行く行く!すぐ行く!今行く!」
「あはははは!それは無理やろ!」
楽しい。
楽しいなんて思っちゃいけないけど…
楽しい。
「そうやねん…ほんまは今すぐ行きたいねんけど…ちょっと仕事遅くなりそうやねん…有里ちゃん、大丈夫?」
小林さんの会社は兵庫県の尼崎にある。
仕事を終えて滋賀県の私の部屋まで来る。
結構な距離だし、結構な時間がかかる。
「私は大丈夫ですけど、小林さんは大丈夫なんですか?仕事終えて来るなんて大変なんじゃ…」
「そんなんない!!大変やないねん!行きたいねんもん!」
小林さんは駄々っ子のような口ぶりでそう言った。
「あははは!わかったー。待ってますよ。気をつけて。無理しないように。」
「うん!うん!うん!待っとって!お願いやから待っとって!じゃ、また連絡するから!待っとってよ!」
小林さんは何度も「待っとって!」と言ってTELを切った。
「んふふ…」
思わず笑ってしまう。
たまにはこんな日があってもいいのかな…
これからもしかしたら死んじゃうかもしれないんだし、こういう日が一日ぐらいあってもいいよね。
ちょっとくらい楽しんでもいいよね?
私は自分にそう言い聞かせていた。
そう。
一日だけだよ。
今日だけ。
ちょっと楽しむだけだよ。
今日が終わったら、また頑張るから。
私は作りかけのハンバーグの仕上げを始めた。
シャキシャキのレタスがなんだかすごく綺麗に見えた。
もうすぐ小林さんがここにやって来る。
つづく。
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