㊺
トイレから聞こえる声に心臓がドキドキしていた。
私と同じことしている…
聞いてはいけない声を聞いてしまった。
知ってはいけないことを知ってしまった。
そんな感覚だった。
トイレの中にいるのは多分佐々木さんだ。
私はしばらくドキドキしたままトイレの前から離れられなかった。
「おえーー!!おえーーー!!」
半分叫ぶような声。
その声があまりにも切なく聞こえ、立ち尽くす。
ハッと気づき、その場を離れた。
自分の部屋に走って戻る。
バタンとドアを閉め、はぁはぁと息を切らしながら座り込んだ。
嘔吐の声が耳に残る。
私が毎日やっているのはあれなんだ。
醜い。
気持ち悪い。
怖い。
…切ない…。
いたたまれなくなり、泣いた。
このまま死んでしまいたくなった。
廊下を歩く音がする。
バタンと佐々木さんの部屋のドアが閉まる音がした。
あぁぁ…
胸が締め付けられるようだった。
死んでしまいたい。
死んでしまいたい。
死んでしまいたい。
泣きながら何度もそう言った。
お店で部屋持ちになっても、たとえナンバーワンになったとしても、お店を移っても、この部屋から出ていって一人暮らしをしても…
この私の苦しみからは逃れることはできないんだ。
次の日。
お店が終わり、原さんとふく田に行った。
原さんは富永さんに連絡をしてくれていた。
「富さーん!お疲れさまでーす!」
お店を閉め終えた富永さんが「すまんすまん」と言いながらカウンターに腰かけた。
「お疲れさん。遅くなってすまんねぇ。」
「いえ、お疲れさまです。」
私は隣に座った富永さんに挨拶をした。
カウンターの右端に富永さんが座り(ここが富永さんの指定席のようだった)、その隣に私、そして原さんの並びで座っていた。
私は緊張していた。
「で?どうするん?」
富永さんはビールをグビグビと飲みながらニヤリと笑って聞いてきた。
「有里ちゃんな、もう辞めるって。『花』辞めるって。」
原さんが顔をひょいと出しながら富永さんに言った。
「ほー。そうなんか?有里。」
富永さんは嬉しそうに私に聞いた。
「えー…はい…。もうすぐお店の寮も出て一人暮らし始めます。そしたら…言うつもりです…。」
なんだか後ろめたかった。
そして怖かった。
新しいお店にほんとに入れるのかわからないし、通用するのかもわからない。
お店のおねえさん達がどんな人たちなのかもわからない。
…ほんとに『花』を辞めていいのかもわからなかった…
「そうか。うん。有里が辞めたらうちに来たらええよ。ゆっくりでもええ。」
富永さんが「うちにきたらええ」と言ってくれた。
私はなんとなく「はい」と応えていた。
「よかったなぁ!有里ちゃん!」
原さんは肩の荷が下りたかのような顔をしていた。
「まぁなぁ…でも、辞めるっていうのはあんまり早く言わない方がええなぁ…」
富永さんが腕組みをしながら言った。
「そやなぁ…。ほんまに辞める直前に言ったほうがええなぁ…」
原さんも頷きながら言った。
「え?どうしてですか?なるべく早めに言った方がよくないですか?辞める一か月前とかですよね?普通は。」
K氏の元から逃げ出して来たくせによく言うよ…私はそんな事を思いながら優等生のようなことを言っていた。
「なるべく辞める直前に言った方がええ。そうやないとお客さんつけてくれなくなるで。」
「うん。そうやそうや。お店側は他の店にお客さん持っていかれたくないからな。」
なるほど。
そういうことか。
「え?じゃあどれくらい前に…」
「3日前とかでええんちゃうかなー」
原さんが言う。
「うーん…まぁ…それは任せるわぁ…」
富永さんが歯切れ悪く言う。
「あんまりワシの口からは言わんほうがええな。」
富永さんは「夏ぐらいまでに来れたらええんやないか?」と言っていた。
そして「焦らんでもええから。有里もお店側も納得する形で来てほしい。」と言った。
富永さんが店長をやっているお店は高級店と中級店の間位のお店だった。
時間は90分コースが基本で料金は全部で4万5千円。
入浴料が1万円で(お客さんがフロントで払うお金)お店で女の子に払うお金は3万5千円。
その内女の子の取り分はフリーのお客さんだと2万8千円。
指名だと3万1千円。
「花」よりもずっと高い金額だった。
「今のお店でしっかりやって来てや。汚い辞め方したら自分が損やで。うちも困るしなぁ。」
その通りだと思った。
でも辞める直前まで辞めることを言わないのは綺麗な辞め方なんだろうか?
私はその辺のことがよくわからないでいた。
「いらっしゃーい!」
ふく田の店長さんがカウンターの中からお店の入口に向かって言った。
「おー、お疲れー」
聞きなれた声が背後で聞こえる。
「お?有里か?」
え?
くるりと振り返るとそこには田之倉さんの姿があった。
え?!
ヤバい!!
「お?原もおるんか?」
原さんも「ヤバい」の顔をしていた。
「お疲れさまです!」
なるべく平常心で挨拶をする。
「お疲れさまー!」
原さんも何事もなかったのように普通に挨拶をしていた。
「お?お疲れさん!あれ?富さんと飲んでたんか?」
ヤバい!!
気付かれたらマズい!!
私がシャトークイーンに行くことがバレたら…
「花」を辞めるつもりだと今バレたら…
「おう。お疲れさん。たまたま一緒になってなぁ。ちょっと話してたんよ。」
富永さんも飄々とかわす。
「富さんと久しぶりに飲みたくてなぁ。」
原さんもさすがだった。
「おー。富さん、有里にちょっかい出したらあかんで。頼むわなー。」
「出すかいな。何を言うとるん?はよそっちで飲めやー。」
田之倉さんは「おう。またなー」と言いながらツレの女性と個室に入っていった。
「…はー!びっくりしたぁ…」
「あははは!びっくりしたなぁー!」
「明日何か聞いてくると思うで。有里、バレんようにな。」
私は「はい!」と言いながらビールを飲んだ。
「有里ちゃん。これでいつでも移動できるで。な?よかったな。」
帰りのタクシーで原さんは何度もそう言った。
私はこれからの「花」での仕事をとりあえず頑張ろうと思った。
6月の最初の連休を利用して新しいお部屋の引き渡しをしてもらった。
ガスを開通して電気の契約をした。
次の日の休みの午前中、ベッドと洗濯機とエアコンが届いた。
ソファーとテーブルも午後には届いた。
あとは原さんのお家の物と寮にある私の荷物をここに運べば引っ越し完了だ。
「カーテンか…」
すっかり忘れていた。
まだまだガランとしている部屋。
カーテンの無いガランとした部屋はなんだか人が住む場所じゃないような気がした。
ここに私は住むんだ…
ウロウロと部屋の中を歩く。
床は明るい茶色のフローリング。
キッチンの横にはベランダの出入り口があり、明るい日差しが差し込んでいた。
白い壁紙が綺麗すぎて目を背けたくなる。
床に座り込み、しばらく一人でボーっとした。
「ここに…住むんだなぁ…」
なんでこんなことになったんだろう?
滋賀県のマンションで一人暮らしをする。
数か月前には全く考えられなかったことだ。
「さ…行くか…」
私は原さんと美紀さんと待ち合わせをしている駅に向かった。
これから大3人で阪まで遊びに行くことになっていた。
原さんが行ってしまう寂しさと、これから初めて行く大阪の街への期待とが入り混じったなんとも言えない気持ちだった。
「…淋しいなぁ…」
独り言が多い。
これからきっと、もっと独り言が増えていくんだろうな…そんなことを思っていた。
つづく。
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