私のコト~私のソープ嬢時代の赤裸々自叙伝~

私の自叙伝です。雄琴ソープ嬢だった過去をできるだけ赤裸々に書いてます。

174

 

トイレで紙コップにおしっこを採った私は、言われた通りにトイレ内の棚の上に紙コップを置き廊下で待った。

 

ただただ時間が過ぎる。

緊張もしない。

何の感情も湧かない。

さっきまで緊張していたはずなのに。

 

私はまた薄汚れた床の一点を見つめる。

 

気持ち悪い。

ずっと気持ち悪さが私につきまとう。

もしこれが『妊娠』というやつなら、こんな風に気持ち悪くなるのはなぜなんだろう?と頭の片隅で考える。

なぜ子を宿すと気持ち悪くなるんだろう。

早く逃れたい。

このずっとつきまとう気持ち悪さから早く解放されたい。

 

 

「こちらへどうぞー。」

 

抑揚のない声で看護師さんであろうおばさんが私を呼ぶ。

 

「あ、はい。」

 

私も抑揚のない声で返事をする。

 

「失礼します。」

 

丸椅子に腰かけておばあちゃん先生の方を見るとカルテに何かを書き記していた。

 

「うん。えーとね、妊娠してるね。」

 

おばあちゃん先生はくるりと椅子を私の方に向けてさらりと言った。

 

「あー…やっぱりそうですか。」

 

ショックも何も受けない自分に驚く。

ただただ「やっぱりな」と思うだけ。

 

「で?中絶を希望するの?」

 

おばあちゃん先生は私をグッと見ながら、またさらりと聞いた。

 

「あ、はい。お願いします。」

 

なんの躊躇もない。

お腹の子をどうこう思う自分がどこにもいない。

 

「あ、そう。まぁじゃあエコーみてみようかね。おしっこでは妊娠反応出てるけどちゃんと診てみようかね。」

 

「あ、はい。」

 

「じゃあこちらへどうぞ。」

 

おばさん看護師さんがカーテンの奥に私を誘導する。

 

「ここで下着を脱いでこちらの診察台に上がって下さい。じゃ。」

 

おばさんが私に指示を出し、サッとカーテンを引いて出て行く。

私は淡々とした気持ちで下着を脱いで診察台にあがった。

 

「じゃお腹にジェル塗るからね。」

 

おばさんが私の下腹にひんやりとしたジェルを塗る。

 

「じゃこっちの画面見ててねー。」

 

おばあちゃんが私のお腹にペタッと小さな機械をくっつける。

私は診察台の横にあるモニターに目をやった。

おばあちゃんはその小さな機械をちょっとずつ動かしながら画面を見ている。

 

「あーこれこれ。これが赤ちゃんね。」

 

黒とグレーだけの画面。

そこには明らかに小さな袋状になっている“何か”が見えた。

おばあちゃんはその“何か”を『赤ちゃん』だと言った。

 

「これが赤ちゃんの入っている袋ね。それでこの小さな点…見える?これが赤ちゃん。」

 

小さな袋状の中に小さな点。

確かに見える。

これ?

これが赤ちゃん?

 

「まだ小さいねー。まぁ妊娠しているのは確実だけどね。つわりは?」

 

おばあちゃんは淡々とした口調で聞く。

 

「はい。ずっと気持ち悪いです。」

 

「そう。うーん…」

 

おばあちゃんが小さな機械を私のお腹から外し、おばさん看護師さんがゴワゴワした紙でジェルを拭きとってくれる。

 

「じゃとりあえず下着つけて。」

 

おばあちゃんが診察台からスッと立ち上がった。

腰が曲がっているのに動きは鈍くないみたいだ。

 

「はい。」

 

私は素直に立ち上がり、淡々と下着を付け、さっき座っていた丸椅子に腰かけた。

おばあちゃん先生はカルテにまた何かを書いている。

 

「父親は?わからないの?」

 

おばあちゃんは椅子をくるりとこちらに向けながらそう言った。

 

「あ、えーと…はい。そうですね。わかりません。」

 

「そうか。これね、中絶するにあたって書いてもらう同意書なんだけど、父親のサインが必要なんよね。これ、書ける?」

 

え?

父親の同意書?

 

「えーと…」

 

私が戸惑っているとおばさん看護師さんが「父親じゃなくてもいいのよ。誰かに書いてもらってもいいんだけどね。」と小さな声で言った。

 

「あ、はい。なんとかします。」

 

まぁなんとかなるだろう。

 

「それでね、ちょっとまだ小さすぎるから手術は来週にするわ。えーと、来週の火曜日が手術ね。大丈夫?で、準備があるから前日に一度来てくれる?」

 

「え?あー…わかりました。」

 

「手術前日に子宮口を広げる処置をするから。ほんのちょっとの時間で済むからね。わかった?」

 

子宮口を広げる処置…ってなんだろう…

 

「あ…はい。あの…どんなことをするんですか?」

 

「ただ小さな錠剤を膣内に入れるだけだから。大丈夫やで。痛くないから。」

 

おばあちゃん先生は若干めんどくさそうに答えた。

 

「先生はすごく身体のこと考えてやってくださるから大丈夫やで。安心して。」

 

おばさん看護師さんが私の横で言う。

 

「…はい。じゃあ月曜日に。お願いします。」

 

「はい。じゃ月曜日にね。」

 

私はおばあちゃんから数枚の書類を手渡され、診察室を後にした。

 

同意書と手術の説明が書いてある紙。

私はその紙をチラッと見て、すぐにバッグにしまった。

 

「ふぅ…」

 

廊下の長椅子に腰かける。

自分の下腹をチラッと見る。

 

ここに?

いるの?

あかちゃんが?

 

ていうか、私、妊娠するんだ。

 

不思議な気分のままボーっと時間が過ぎる。

 

「じゃこちらへ来てください。」

 

受付の小さな窓からおばさんが顔を出す。

 

「はい。」

 

私はサッと立ち上がり、おばさんの前に顔を出した。

 

「じゃ今日の分は手術が終わったら一括で頂きますから。今日はお会計はいいですからね。で、月曜日はまた同じ時間で大丈夫ですか?」

 

「あ、はい。3時…ですよね?」

 

「そう3時。大丈夫?」

 

「はい。大丈夫です。」

 

「じゃその時に同意書を忘れずに持って来て下さい。あと麻酔に関する書類があったと思うんやけど、よく読んで自分のサインを忘れずに書いて持って来て下さい。」

 

「あ…はい。」

 

「先生はね、極力麻酔の本数を少なく使うのよ。術後の身体の負担を減らすためにね。

前日に子宮口を開かせる処置をするのも身体の負担を極力減らすためなの。だから安心してくださいね。」

 

急に饒舌に説明し始めるおばさん看護師さんになにやら違和感を感じる。

私を安心させるために言っているとは何となく思えない。

 

「…わかりました。よろしくお願いします。」

 

私は違和感を覚えながらも病院を変えようとは思わなかった。

そんな気力もない。

 

「料金はお電話でもお伝えしましたけど11万円です。麻酔の追加がもしあったりしたらそれ以上になることもありますけど。これは手術当日にお持ちになってください。」

 

「あ…わかりました。」

 

「ではまた月曜日に。」

 

おばさんはニコリともせずにずっと同じ表情で話していた。

そして私がスリッパを脱いで靴を履こうとしている時にピシャリと受付の窓ガラスを閉めた。

 

病院を出ると4時を過ぎていて、赤とオレンジと青と少しの黒がコントラストになっている空がなんともいえず綺麗だった。

 

誰もいない路地で空を見上げる。

 

「はぁー…」

 

顔を上にあげながら息を吐く。

白くなった息が空に向かって消える。

 

「…私…妊娠できるんだなぁ…」

 

なぜか涙がぽろっと流れた。

悲しくもなんともないのに。

 

「…帰ろう…」

 

私はぽろっと流れた涙をそのままにして歩き出す。

たった一粒しか流れなかったからそのままにした。

 

 

 

来週、私は中絶手術をする。

 

 

 

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175 - 私のコト~私のソープ嬢時代の赤裸々自叙伝~

 

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はじめに。 - 私のコト

173

 

次の日の朝。

私は気持ち悪さをごまかしながらコバくんのお弁当を作り、コーヒーを淹れた。

 

「あれ?ゆきえ最近コーヒー飲まへんなぁ。」

 

コバくんが私に何気なく言う。

その言葉にドキッとする。

 

「あー…うん。なんかあんまり飲む気せぇへんくて。今はこっちのが好きみたいやな。」

 

私は自分のマグカップに入っているハーブティーを指差した。

コーヒーの匂いを嗅ぐと吐き気が増す。

昨日はビールを試しに飲んでみたら見事にやられた。

 

「なんや体調悪そうやもんなぁ。お酒も飲みたくないんやろ?」

 

最近の私は今まで絶対飲まなかった『ピーチサワー』や『オレンジサワー』とかを飲んでいる。

アルコールがほんのちょっとしか入っていない、甘いサワーを飲みたくなる。

そんなほんのちょっとしか入っていないアルコールでさえ、敏感に反応してすぐに飲めなくなってしまう。

 

「うん。まぁ今までが飲み過ぎやったんやろ。あはは。」

 

コバくんに今の状況を知られたくない。

いや、誰にも知られたくない。

誰にも知られずに終わらせたい。

 

「大丈夫か?今日はゆっくりできるんやろ?あったかくしてゆっくりしときや。心配やなぁ。」

 

コバくんはほんとに心配そうな顔をして私をみた。

 

「お弁当なんてよかったんやで。調子が悪い時は作らんでええんやで。ありがとうな。」

 

私の頭を撫でながら言うコバくん。

 

「ううん。できそうやったから作っただけやで。大丈夫。ありがとう。」

 

私はコバくんに罪悪感を持っている。

貴方のことを好きでもないのに利用している自分をいつも責めている。

「大好きやで」「ゆきえのことが一番大切やで」と言ってくれる存在が近くにいるというこの状況をなくしたくないだけで一緒にいる自分を責めている。

お弁当を作ったりお洗濯をしたり掃除をしたりするのは、その罪悪感を埋めるためのもののような気がしている。

 

今日だって私は貴方に何も言わずに婦人科に行くんだ。

そしてお客さんの子を身ごもっていたなら中絶手術を受けるかもしれないんだ。

 

お弁当作りぐらいやりますよ。

コーヒーぐらい淹れますよ。

 

こんな私を大切にしようとしてくれてるんだから。

 

「ほな行ってくるわ。もししんどくなったらいつでも電話してや。ちょっと時間はかかってしまうけど飛んで帰って来るから。な?」

 

コバくんが優しい笑顔で私に言った。

私はその笑顔を見ると胸がつまる。

 

「あ、うん。わかった。ありがとう。いつもごめんやで。」

 

「なにを言うてるん。ごめんはいらんで。ほなな。」

 

「うん。いってらっしゃい。」

 

コバくんと私は玄関でキスをした。

コバくんはキスをした後必ず「えへへ」とはにかんだ笑顔を見せる。

私はその笑顔を見てまた胸がつまる。

好きな笑顔なのに。

 

 

コバくんを送り出すと気持ち悪さが襲ってくる。

誰かがいると気がまぎれるのか、さっきよりもグッと気持ち悪さが増している。

 

「あぁ…気持ち悪い…」

 

私はどこにも追いやれないこの気持ち悪さを持て余し、ソファーに寝っ転がる。

 

水を飲んでみても、炭酸水を飲んでみても、寝ようとしてみてもこの気持ち悪さからは逃れられない。

 

「あぁ…気持ち悪い…うぅ…気持ち悪いよぉ…」

 

ソファーでゴロゴロと体勢を変えながら格闘する私。

 

早く病院の時間になれ。と心で願う。

病院に行ったからってこの気持ち悪さがおさまるわけではないかもしれないのに。

 

 

お昼過ぎ。

私は身支度を整え、お金を多めに持って家を出た。

保険証を持たない私は病院で診察を受けるとき、いつもドキドキする。

それは支払いの金額がいくらになるか?のドキドキもあるけれど、受付で「保険証はお持ちですか?」の問いに「いえ。持っていません。」と答えるのが怖いのだ。

 

受付の人にどう思われるか?をこの期に及んで気にしている自分がいる。

「保険証も持ってないなんてだらしない女だな」と思われているんじゃないかと感じ、怖いのだ。

 

実際だらしない女なのだからしょうがないのに。

 

「はぁ!よし。」

 

私は少しだけ背筋を正して玄関のドアのカギを閉めた。

 

 

部屋を出てから大阪の九条という駅まで大体1時間半ほどかかった。

九条の街は下町のような風情で、商店街が魅力的だった。

 

駅前の交番に立ち寄り、婦人科の場所を聞く。

交番のおまわりさんは親切に道順を教えてくれたけど、その目線にちょっと首をかしげた。

そのおまわりさんは私が婦人科の名前を言った途端、私のことを上から下までジロジロとみたのだ。

 

「ありがとうございました。助かりました。」

 

私はそう伝えて交番をでた。

 

おまわりさんは「そのあたりはちょっと細くなっている路地なので気ぃ付けてくださいね。」と私の背中に向かって声をかけてくれた。

 

「あ、はい。ありがとうございます。」

 

私は振り返り、もう一度お礼を言う。

おまわりさんはにこやかに笑いながら、私を上から下までもう一度見ていた。

 

「…なんだろうなぁ…」

 

私は首をかしげながらおまわりさんに貰った地図を片手に、さっき教わった道順を辿った。

 

賑わっている商店街から数本外れた路地。

人通りがまったくない、細いさびれた感じの路地にポツンと看板が出ている。

 

『○○婦人科』

 

古そうな看板、木造の建物、木の扉には模様の入った擦りガラス、真鍮のドアノブは黒く汚れていた。

 

時計をみるとまだ2時半だった。

 

「あー…まだ早いな…」

 

私は1人で呟くと婦人科に背を向け、周りの散策を始めた。

 

婦人科の路地の一本隣の道に行ってみると、そこには『ストリップ』と書かれた看板や『のぞき』と書かれた看板がちらほらとあった。

よく見ると『ファッション』と書かれた看板も『ピンサロ』と書かれた看板もある。

 

ほとんど誰も歩いていないそんな道を私がキョロキョロと見回しながら歩く。

店の前には黒服のボーイさんらしき人がちらほら立っていて、私のことをジロジロと見ている。

 

あぁ…

こういう街の婦人科だったのか…

 

私の中でなんとなく合点がいった。

 

私はその道の雰囲気が嫌いではなく、むしろワクワクしていた。

そしてキョロキョロと見ながらうろうろと歩いた。

 

「ね!おねえさんどこの国の人?どこか店で働いてるん?」

 

うろうろ歩いていると一人の黒服の男性に話しかけられる。

 

「え?…日本…ですけど…」

 

思わず答えてしまう。

この「どこの国の人?」は今まで何度聞かれたかわからない質問だ。

どうやら私は『日本人』には見えないらしい。

 

「え?!そうなん?!どっかの血ぃはいってるやろー。ほんまに純粋な日本人?」

 

30代半ばほどのその黒服の男性は、大げさにのけ反って私に聞いた。

 

その「ほんまに純粋な日本人?」の質問も何度されたかわからない。

私のどこがそんな風に見えるんだろう?

 

「あ…はい。純粋な日本人です。」

 

これからの時間にたいして緊張していたからか、私は誰かと話しがしたかったのかもしれない。

思わず立ち止まってしまったのはきっとそんな理由からだ。

 

「へー!なんやロシア人に見えんくもないなぁ。あそこのストリップにお姉さんそっくりなロシア人の女の子がおるんよー。で?どこで働いてるん?」

 

黒服の男性は明るく気さくな口調で話しを続けた。

 

「ロシア人?私が?あははは。どこがロシア人やねん。えーと…滋賀県雄琴で働いてます。」

 

私はその黒服の男性にほんとのことを言った。

なんだかほんとのことを言いたかったから。

 

「え?!滋賀県雄琴?!てことは…ソープランド?!嘘やん?!ほんまに?!じゃお姉さんソープ嬢ってこと?」

 

「はい。そうですよ。」

 

「えーーー?!なんで?なんでこんなとこおるん?」

 

黒服の男性がまたのけ反って驚いている。

 

「あー…まぁいろいろあって。」

 

私は『ソープランドで働いている』は言えるのに『そこの婦人科に来た』ということは言えない自分に驚く。

 

「そうなんやぁ。お姉さん若いし綺麗からうちで働かん?って誘おうと思ったんやけどなぁ。どう?うちで働かん?お姉さんやったらすぐ売れるやろなぁ。」

 

ニコニコと笑いながらスカウトをする黒服さん。

まぁそんなことだろうと思っていた。

 

「いや、ソープ辞める気ないから。ところで、この辺って風俗…街なんですか?」

 

「まぁちっさいけどな。この辺は外人さんが増えたで。特に最近はロシア人とかヨーロッパ系の女の子が増えたなぁ。ちょっと前まではフィリピンとか韓国とかが多かったけどな。」

 

「へぇ、そうなんやぁ。景気はどうですか?忙しい?」

 

私はなんとなく知りたくなってそんな質問をする。

これから婦人科に行って妊娠しているかどうかの検査をするというのに。

 

「まぁぼちぼちやな。あはは。関西人にその質問したらみんなこう答えるやろー?」

 

「あはは。まぁそうですねぇ。」

 

チラッと時計を見るともうすぐ3時だった。

 

「あ!もう行かなきゃ!じゃ。」

 

私は黒服さんにそういうと手を挙げてその場を立ち去った。

 

「おう!お姉さんも頑張りぃー。俺もがんばるわー。」

 

「あはは。はい。がんばってー!」

 

「またなー!気が変わったら店に来てー!」

 

「あははは。はーい!」

 

私は笑いながら手を振って、さっきの婦人科に向かった。

 

「はぁ!」

 

黒服のお兄さんのお陰でちょっとリラックスできた気がする。

 

あ!

さっきの交番のおまわりさん…

もしかしたら私がどこの国の人かわからずに、そしてこの風俗街で働いている女性だと思って上から下まで見ていたのかもしれない…

なるほど…

今から私が行こうとしている婦人科はこの辺の風俗嬢御用達の病院なんだろう。

 

病院の前に再び立つ。

緊張しながら真鍮の味のあるドアノブに手をかける。

 

ガチャ。

ガタガタガタ…

 

木製のドアとすりガラスが音を立てて開く。

 

薄暗い玄関。

消毒液の匂い。

緑色のスリッパが左手の棚にいくつか並んでいる。

右手には小さなガラスの窓があり、上に『受付』と書かれた白いプラスチックの札がかかっている。

 

閉じられたガラスの窓をカラカラと開け、「すいませーん」と声をかける。

 

「はい。」

 

1人のおばさんがにゅっと顔を出す。

表情のない顔。

小さな抑揚のない声。

 

さびれた感じの院内とそのおばさんがやたらとベストマッチで驚く。

 

「あの…昨日お電話したものですけど…」

 

「あぁ、妊娠検査の方ですね。ではこちら書いてください。そこに座ってね。」

 

おばさんは問診票を私に渡すと目の前の長椅子を指してそう言った。

茶色のカバーのかかった長椅子に腰かけ、私はその問診票に記入をした。

そして職業の欄には素直に『ソープランド勤務』と書いた。

 

書きあがった問診票をガラスの窓からおばさんに渡し、「ちょっと待っててください」という言葉に「はい」としおらしく答えてもう一度長椅子に腰かけた。

 

「ふぅ…」

 

このさびれた病院は私にはふさわしい場所だな…と思う。

私はここできっとひどい目に合うんだ。

だってやってることがひどいんだから。

 

さびれた病院の薄汚れた床の一点をジッと見ながら私は待った。

これから起こることがどんなことなのか想像もつかないまま。

 

「こちらへどうぞー。」

 

さっきのおばさんが廊下に出てきて私を呼んだ。

おばさんは廊下の奥にある木のドアをガチャッと開けて私を誘導した。

そのドアの上には『診察室』の札があった。

 

「よろしくお願いします。」

 

私は診察室に入り、頭を下げた。

 

「はいはい。妊娠してるかもしれないって?」

 

パッと顔を上げると目の前に座っていたのは白衣を着た腰の曲がったおばあちゃんだった。

 

え?

このおばあちゃんが先生?

腰…けっこう曲がってるみたいに見えるけど…

 

だ…大丈夫なの…?

 

「あ…はい。」

 

「じゃ、とりあえずこれにおしっこ採ってきてくれる?これでまず調べるから。はい、行ってきて。」

 

白髪に大きな眼鏡をかけたおばあちゃん先生が私に言う。

 

「あ…はい。」

 

「おしっこ採ったらトイレにちっさい窓があるから。そこに置いておいて。すぐ検査するから。そしたまた呼ぶから廊下で待ってて。」

 

若干ぶっきらぼうな物の言い方をするおばあちゃん先生は眼鏡の上の隙間から私の顔をグッと見て「わかった?」と聞いた。

 

「はい。わかりました。」

 

私は自分が今どこにいるのかわからないような、私は何をしているのかわからないような状態に陥っていた。

フラフラとなんの感情もなく、言われるがままにトイレに向かった。

 

 

 

つづく。

 

 

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174 - 私のコト~私のソープ嬢時代の赤裸々自叙伝~

 

 

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はじめに。 - 私のコト

 

172

 

ピルを飲まずに過ごすこと1週間。

お客さんのコンドームが私の膣内で取れてしまって結果的に中出しされてから6日。

生理はまだきていない。

 

私は焦ることもなく、もしかしたら体調が悪いだけかもと思っていた。

頭の片隅には『妊娠』の二文字がちらついていたけど。

 

それから数日後。

私は出勤前に毎日一回摂取していたダイエットサプリを飲んだ。

 

ななちゃんが海外通販で購入したサプリと筋トレでだいぶ痩せたことで、シャトークイーンの控室ではその海外通販のカタログからダイエットサプリを購入することが流行っていた。

常に痩せたいと思っている私はすぐにその話しにとびつき、その海外通販カタログで見つけた1箱2万円のサプリを買ってせっせと飲んでいた。

 

透明な小袋に青や赤や白の錠剤とカプセルが6個ずつ小分けにされているそのサプリを1日1袋飲むだけ。

それだけで痩せられると書いてあった。

 

1箱に30袋入っているそのサプリをもうすでに半分は飲んでいる。

痩せる効果はなかなかのもので、私はスッキリしたお腹と太ももにちょっとだけ期待をしていた。

 

いつものように小袋を開け、ガバッと口に入れて水で流し込む。

時計を見ると、まだ少しだけ出勤には早かったから「ふぅ」と言いながらソファーに座った。

 

…あれ?

ん?

なんだ…?

き…気持ち…悪い…

 

急に襲ってくる吐き気。

 

え?

なに?

ヤバい…

ガマンできない…

 

私は猛烈な吐き気に襲われ、トイレに行くのも間に合わず、キッチンの流し台に吐いた。

 

「おえーーー!!おえ…う…お、おえーーーーー!!!」

 

ついさっき飲んだサプリとお水がジャバジャバと口から出る。

 

ほぼ毎日食べ吐きをしている私は、口の中に何も突っ込んでいないのに吐けてしまったことに驚いていた。

たとえ体調が悪くて気持ち悪くても、多少何かを口に突っ込まなければ吐けない身体になってしまっていたはずなのに。

 

流し台の水道をジャージャー出し、私は自分の嘔吐物を流した。

 

「おえ…おえーー…うぅ…おえーー」

 

出てくるのは水だけ。

そしてそれに混ざってたまにポツンとさっき飲んだ錠剤がでてくるだけだった。

 

「はぁ…はぁ…はぁ…」

 

何となく吐き気が治まってキッチンの床に座り込む。

 

「はぁはぁはぁ…」

 

口のまわりがびちゃびちゃだ。

涙もボロボロと出た。

四つん這いで部屋のチェストまで行きタオルを出す。

 

口と顔を拭き「ふぅ…」と息を吐く。

 

ムカムカムカムカ…

 

さっきよりはいいけれど、気持ち悪さが続いていることに気付く。

 

…気持ち悪い…

 

私の頭の中に『つわり』という文字が浮かぶ。

 

そしてすぐに「いや、そんなはずはない」と打ち消す。

 

「さ。仕事行こう。」

 

私は何事もなかったかのようにそう言いながら玄関をでた。

小さな吐き気と共に。

 

 

私のそこはかとない吐き気は治まることなく、とうとうお酒も飲めなくなった。

ビールの匂いもウイスキーの匂いも焼酎の匂いもただただ気持ち悪さが増すだけだった。

 

ピルを飲まなくなって15日。

気持ち悪さもひどくなり、私はとうとう観念した。

 

私は控室で1人になると、部屋の片隅にあったタウンページをめくった。

 

『婦人科・産婦人科』のページをめくる。

 

私は滋賀県の病院には行きたくなくて、京都や大阪の病院を調べていた。

誰にもバレたくない。

もしかしたら妊娠してるかもしれないことを誰にも知られたくない。

 

私は大阪の九条という場所にある婦人科の番号を携帯に入力した。

なぜそこの病院に行こうと思ったのかはわからない。

気付いたら「ここに行こう」と手が勝手に動いていた。

 

お店の裏口から外に出て入力した番号に電話をかける。

 

もう2月だ。

滋賀県の冬はとても寒い。

控室に置いてあるブランケットを肩にかけ、私は電話の呼び出し音を聞いていた。

 

「ふぅー…」

 

緊張しながら息を吐くと真っ白だった。

 

「はい。○○婦人病院です。」

 

暗い小さな女性の声。

冷たい印象を受ける。

 

「あ…あの…お忙しい所失礼します。ちょっと伺いたいことがあるのですが…」

 

緊張する。

ただ聞くだけなのに緊張する。

 

「はい。どうぞ。」

 

抑揚のない声にますます緊張が高まる。

 

「あの、もしかした妊娠しているかもしれなくて…で、もし妊娠していたら中絶手術をお願いしたのですが…。どうしたらいでしょう?あと保険証をもっていなくて…あの…費用って幾らぐらいかかりますか?」

 

なるべく緊張を悟られないように冷静に話す。

『中絶手術』という言葉も淡々と言えたはずだ。

 

「あ、そうですか。それでしたら一度検査に来てもらわないとなんとも言えませんね。

でー…中絶手術ですが、保険がもともと効かないので実費になりますね。費用は11万円です。一度検査にいらしてください。いつ来られますか?」

 

電話の向こうの女性は慣れた様子で話しを進めた。

私はドキドキしながら一言一句聞き洩らさないように真剣に話しを聞いた。

 

「あ、はい。わかりました。えーと…明日伺います。大丈夫ですか?」

 

今日は月曜日。

明日は私の休みの日だ。

コバくんもいない日。

これなら誰にもバレないで行かれる。

 

「はい。明日は午後3時からの診療になりますが大丈夫ですか?」

 

「あ、はい。では明日の3時に伺います。」

 

 

その後も電話の向こうの女性は淡々と事を進め、無事に病院の予約ができた。

 

明日、私は妊娠の検査をする。

初めての経験だ。

そしてそこでもし妊娠が確定したら私は中絶手術というものをすることになる。

 

 

今はまだ他人事のようだ。

わかることはこの気持ち悪さだけ。

 

明日私はどんな体験をして、どんな思いにかられるのだろう。

お店は何日休まなければならないのだろう。

もう2月だというのに、もうすぐソープ嬢の期間が終わるというのに、私は何日お店を休まなければいけないんだろう。

 

私は悲しむのだろうか。

私は自分を責めるのだろうか。

私は自暴自棄になるのだろうか。

 

もし悲しむならどんな悲しみだろう。

もし責めるのならどんな風に責めるのだろう。

もし自暴自棄になるのならどんなにめちゃめちゃになるんだろう。

 

「…嫌だなぁ…」

 

そう呟きながらもどこかで『明日の自分』を早く知りたいと思っていることに気付く。

 

どんな病院でどんなことを言われるのか。

病院の帰り道で何を思うのか。

 

私は『明日の私』に思いをはせる。

 

「…めんどくさいなぁ…」

 

そう言いながら控室に戻った。

この後常連さんの予約が入っている。

私は自分の席に置きっぱなしになっていたタウンページを部屋の片隅に「よいしょっと」と言いながら戻し、座椅子に座ってテレビをつけた。

 

「あははは。」

 

関西ではおなじみのタージンさんがめちゃめちゃしゃべっている。

そのしゃべりがウザくて面白い。

 

「あははは」

 

1人の控室で笑う私。

 

妊娠してるかもしれなくて、もしかしたら中絶手術をするかもしれないのに、私はテレビのタージンさんを観て笑うんだ。

 

泣いたり責めたり自暴自棄になったりしたって、きっと私はこうやってテレビを観て笑ったりするんだろう。

 

そんな自分が嫌だなぁと思っていた。

きっと他のみんなはもっと嘆き悲しんだりすんだろうなぁ。

 

「有里さん。有里さん。」

 

スピーカーから声が聞こえる。

 

「はい。」

 

「ご指名です。スタンバイしてください。」

 

「はーい。」

 

返事をした後「あはは」と笑う。

タージンさんはすごい。

こんな状態の私を笑わせるんだから。

 

「さ!行こう!」

 

私はちょっとだけ化粧を直し、サッと立ち上がった。

 

「上田さーん。もう行けるでー。」

 

ほんとは相変わらずめちゃくちゃ緊張しているのに、その緊張がバレないように上田さんに声をかけた。

 

私はこの後も個室に入って「あははは」と笑うんだろう。

お客さんと話しながら。

お腹には赤ちゃんがいるかもしれないのに。

 

 

 

つづく。

 

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173 - 私のコト~私のソープ嬢時代の赤裸々自叙伝~

 

 

 

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はじめに。 - 私のコト

 

 

 

 

171

 

理奈さんとの旅行から帰ってきてからも私はピルを飲み続けた。

このまま来月まで飲み続けてしまおうと思っていた。

 

が、ピルが1ヵ月分とあと少ししか手元にないことに気付く。

もうすぐピルがなくなってしまう。

 

出勤前にいつも行っている婦人科の病院に寄ってピルをもらおうと思っていたのだけれど、食べ吐きがひどくて毎日時間がギリギリになってしまう。

今日は行こう、今日こそは行こうと思いながら数日が過ぎた。

 

そしてとうとう手元にピルがなくなった。

 

とりあえず今日と明日はまだ生理がこないから大丈夫。

3日目はどうしよう。

 

そんなことを考えてお店に出勤した。

 

あれ…

そういえば…

 

ふと今まであまり考えていなかったことを考え始める。

 

今日ピルを飲まないじゃん。

そうすると、ホルモンが変わるんだよね?

てことは今日から『排卵』されるってことだよね?

てことは、明日とかあさってのまだ生理が来てないときに『中出し』されてしまったら…

 

妊娠してしまうってことなのかな。

 

え?

そうなのかな?

 

いやいやいや…

そんなことないでしょ。

そもそも『排卵』されてるかどうかもわからないし、ただ生理がきてるだけかもしれないもんねぇ。

 

いやでも…

 

私は頭の中でぐるぐると考えた。

 

今まで一度もそのことを考えなかった自分に驚く。

よくここまで無事にきたもんだ。

 

 

「まぁ…でも…みんな無事なんだし…そんなことあるわけないでしょ。」

 

自分で自分に言い聞かせる。

 

そもそも私の食生活はめちゃめちゃだし(食べ吐きガンガンやってるし)、酒だって飲んでるし、私が妊娠なんてするわけがない。

 

 

「ねぇ、あのさ、ピル抜いてる日に中出しされたら妊娠ってするん?」

 

私は控室で小雪さんとねねさんと理奈さんに聞いた。

 

「え?せんやろー。」

理奈さんが答える。

 

「え?するやろー。そりゃすることもあるんちゃう?」

小雪さんが答える。

 

「え?どうなんやろ?考えたことなかった。」

ねねさんが答える。

 

 

結局ほんとのところはわからなかった。

 

どうなんだろう。

もし妊娠したらどうするんだろう。

 

私は頭の片隅でそんなことを思っていた。

 

いやいやいや…

そんなことあるはずない。

 

そう打ち消した後、すぐに『妊娠したらどうしよう』という考えがやってくる。

そして『もし妊娠したら私どんな体験するんだろう…』とちょっと興味が湧いてしまう。

 

そんな疑問と不安と興味がない交ぜになった気持ちで仕事をしていた。

 

 

ピルが無くなって2日目。

3人目のお客さんに入った時、アクシデントが起こった。

 

 

「あ…?あれ?あれ?」

 

SEXが終わっておちんちんを抜いたお客さんが焦っている。

 

「え?どうしました?」

 

正常位でフィニッシュを迎えたお客さん。

私は焦っているお客さんの姿を見るために上半身を起こした。

 

「いや…コンドームが…」

 

私の股の間で正座の姿勢をとっているお客さんが引きつった顔で私を見ている。

 

「え?」

 

私はグッと起き上がり、お客さんのおちんちんを見る。

 

…コンドームがついていない…

 

「あ…あれ?中に入ったまんま?あれ?とれちゃったのかな…?」

 

まだ30代だろうそのお客さんは引きつった笑顔で焦っている。

 

「あー…たまにあるんですよ。大丈夫です。ちょっと待っててくださいね。」

 

私はお客さんのおちんちんを丁寧にティッシュで拭き、ベッドに座らせて股間にタオルをかけた。

とにかくお客さんを安心させなければとなるべく落ち着いた態度をとる。

そして私はお風呂場に行き、シャワーを流しながらお客さんから見えないような姿勢をとって膣内にはいったまんまのコンドームを指で掻きだした。

 

「有里ちゃん、大丈夫?」

 

ベッドに腰かけたままお客さんが心配そうに聞く。

 

「あー大丈夫ですよ!今取れましたぁ。たまぁにあるんですよ。」

 

私は笑いながらタオルで身体を拭き、お茶の用意をした。

 

「病気の検査も毎回してるし、ちゃんとピルも飲んでるから心配しないで大丈夫ですよ。」

 

ニッコリ笑って言う私。

 

いや、ほんとはピル飲んでないんだけど。

 

「あぁ…そうなんや。よかった…。」

 

あからさまに安心するお客さん。

まぁそんなもんだ。

 

 

中出しされてしまった。

意図的ではなくアクシデントだ。

 

こんなことでまさか妊娠するはずがない。

そりゃそうでしょ。

そんなはずはない。

 

 

 

その後、ピルを飲んでいないのに生理がくることはなかった。

くるはずの生理が、こない日々が私にやってきた。

 

『まさか』のことが私に起こっているらしかった。

 

 

 

 

つづく。

 

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172 - 私のコト~私のソープ嬢時代の赤裸々自叙伝~

 

 

 

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はじめに。 - 私のコト

170

 

「おもろかったなぁ。また行こうな。」

 

帰りの電車で理奈さんが私に笑いながら言う。

 

「うん。ほんまに楽しかったなぁ。また行こうな。」

 

電車に乗る前に買ったお菓子の袋を開けながら答える。

『また行こうな』が実現することはないんだろうなぁと思いながら。

 

帰りの電車の中、理奈さんはほとんど眠っていた。

私も温泉の効果なのか身体がダルくてすぐに眠ってしまった。

 

「ほな。またお店でな」

 

「うん。またね。お店でね。ありがとう。」

 

「うん。ありがとうな。あ、有里ちゃん、これ。」

 

もうすぐ比叡山坂本駅に着くという時、理奈さんがお土産物屋さんの小さな袋を私に差し出した。

 

「え?なに?」

 

「有里ちゃんにあげたくなったから買うたんよ。これあげるわ。」

 

理奈さんは少しはにかみながらそう言った。

 

「え…なんやろ?開けていい?」

 

「うん。たいしたもんやないで。」

 

袋を開けてみると小さな紫の石の付いた携帯ストラップだった。

 

「わ!かわいい!え?なんで?いいの?」

 

突然のことに驚いた私は何度も「え?なんで?」と繰り返した。

 

「なんでって、可愛いやろ?お揃いやねん。」

 

理奈さんはそう言うと、自分の携帯に付いているストラップを私に見せた。

小さな緑の石の付いたストラップが揺れている。

 

「うわ!ほんま?!うわー!嬉しいわぁー!」

 

理奈さんが私にお揃いの物をプレゼントしてくれた。

しかも一緒に行った旅行先で買ってくれたもの。

すごい嬉しい!!

 

「有里ちゃんはなんか紫って感じやねんなぁ。イメージがな。私は緑とか青って感じせぇへん?」

 

理奈さんが笑いながら言う。

 

「うんうん。理奈さんはそんな感じするわぁ。私は…紫なんやなぁ。自分ではよぉわからんわ。」

 

貰ったストラップをニヤニヤしながら眺めて返事をする。

 

「あ、もう着くで。」

 

「あ、ほんまや。」

 

まもなく比叡山坂本駅に到着すると車内アナウンスが流れた。

 

終ってしまう。

この時間が終わってしまう。

 

「ほんまにありがとう。これ、めっちゃうれしいわ。帰ったらすぐ携帯に付けるわ。」

 

「うん。じゃあね。」

 

理奈さんは一つ先の堅田駅で降りることになっていた。

私とはここでお別れだ。

 

電車を降り、理奈さんが座っている姿が見えるところで手を振る。

発車した電車を手を振りながら見送る。

理奈さんも私の姿が見えなくなるまで手を振っていた。

 

 

「はぁ…帰るか…」

 

1人で呟く。

 

ふと、昔読んだマンガ『湘南爆走族』のセリフが頭をよぎる。

 

 

『思い出ができる瞬間ってあっけねーよなー…』

 

思い出ができる瞬間。

 

きっと今がそうなんだろうな。

ほんとにあっけないな。

 

思い出…

あれ…

この今できた思い出は私が死んだらどうなっちゃうんだろう…?

 

駅から家までの道のり、とぼとぼと歩きながらそんなことを考える。

 

この私の思い出は私にしかわからないことなんだ。

今までのことも今日のことも。

 

私が死んだら今日のこともきっとなかったことになってしまうんだ。

昨日のあの夢のような時間も。

 

 

…死にたくないな…

 

 

え?

私、死にたくないって思った?

今死にたくないって考えた?

うそ?

 

私は一瞬自分が『死にたくない』と思ったことに驚いた。

 

毎日が辛くてしんどくて、もし今後も生きていくのならば超えなきゃいけない山がたくさんある。

それがわかっているのに『死にたくない』と思った自分。

 

なぜだろう。

なぜ死にたくないと思うのだろう。

なぜ生きていたいと思うのだろう。

 

生きるってなんだろう…。

 

答えなんかでない疑問に埋没する。

この答えが出る日まで、私は生きているんだろうか。

 

 

 

その日の夜、私は仕事から帰ってきたコバくんに旅行がいかに楽しかったかを話した。

 

「よかったなぁ。ゆきえが楽しかったならよかったよ。」

 

ニコニコしながら私の話しを聞くコバくん。

この人は「生きている意味」を考えるのだろうか。

 

「すごい楽しかったんだけどな、帰り道にめっちゃ切なくなってなぁ。泣きそうになったわ。」

 

私はさっきの帰り道の気持ちを思い出し、泣きそうになる。

 

「うん。そうかぁ…。終わってしまうのって淋しいもんなぁ。でも思い出が出来てよかったな。」

 

思い出…

 

「…その思い出って私が死んだらどうなるんやろ…全部なくなってしまうってことなんやろか。」

 

さっき考えたことをコバくんにぶつける。

こんなことをしたって答なんて出ないってわかっているのに。

 

「…そんなん言うなやぁ。ゆきえが長く生きればその思い出を誰かに語れるんやろ?そうすればいろんな人の中にその思い出が生きつづけるやないかぁ。」

 

…そういうことじゃないんだよ…

私が言いたいのはそういうことじゃないんだよなぁ…

 

私は自分が一体何を言いたいのかまとめられず、「そうじゃない」と思いながらも

「うん。そうやね。」と答えていた。

 

 

「コバくんはさ…なんで生きてるん?」

 

答えなんか出ないと知っている疑問をまたぶつける。

この人はなんて答えるだろう。

 

「え…?なんで生きてるんかって…そうやな…」

 

コバくんがしばし考える。

 

うん。

どうして?

なんで生きてるの?

 

「…よぉわからけど…今はゆきえを笑わせるために生きてると思ってるで。ゆきえと一緒に生きたいと思って生きてるで。」

 

コバくんはなんの迷いもなく、言い淀むことなくそう言った。

 

「あ…ありがとう。へぇ…そうなんや。なんかすごいな。コバくんすごいなぁ。」

 

私はなんの躊躇もなくそう言えるコバくんをほんとにすごいと思った。

私の聞きたかったこととズレてはいるのだけれど。

 

「え?なんで?そりゃそうやろー。あははは。俺はゆきえがおらんとあかんからなぁ。」

 

コバくんが子どもみたいに笑う。

この人はなんなんだろう。

 

「ゆきえ、明日もお休みなんやろ?ええなぁ。一緒におりたいわ。」

 

こんなにも人と一緒にいたいと思えることがすごい。

私にはコバくんの気持ちが全くわからない。

 

「ゆきえ、今生理休暇なんやろ?今生理ってこと?温泉平気やったん?」

 

コバくんは私の体調の事をよく気にかけてくれる。

いつもいつも私を心配して気にかけているのがひしひしと伝わる。

 

「うん。生理休暇やったんやけど、生理来させてないねん。温泉入るのに気ぃ使うの嫌やから。ピル飲み続けたんや。まだ抜いてないねん。」

 

今回の旅行は私にとってとても特別なイベントだった。

だから心配要素をなるべく減らしたいと思った私は生理をこさせるのを止めた。

生理休暇の扱いなのに。

 

ソープ嬢は毎日ピルを飲む。

そして生理を来させたい日の2日前にピルを飲むのをストップすると見事に2日後に生理がくる。

そして見事に4日間で生理が終わる。

 

月に一度、ちゃんと生理を来させないと体調がおかしくなると先輩たちが言っていた。

お金をガンガン稼ぎたいソープ嬢はずっとピルを飲み続けて生理をストップさせるらしい。

そしてある日体調を崩してしまうと。

 

私はその話しを聞いてから、必ず月に一度ちゃんと生理休暇をとって生理を来させた。

生理を来させなかったのはこれが初めてだ。

 

「大丈夫なん?え?生理来させてないってどうするん?」

 

コバくんが心配そうに私に聞く。

言わなきゃよかった。

 

「うーん。どうしようかなぁ。まぁなんとかなるやろ。」

 

この時点で私は先のことをちゃんと考えていなかった。

このまま来月までピルを飲み続けるか、もしくは生理を来させてしまってお店をお休みするか。

 

とにかく私はこの旅行のことしか考えていなかった。

目いっぱい旅行を楽しんで、それから考えようと思っていたのだ。

 

「身体しんどくなったらすぐ言うてや。ほんまに大丈夫?」

 

「うん。ありがとう。なんとかなるよ。」

 

 

この『なんとかなるよ』がなかなか大変なことになていくことをこの時の私はまだ知らない。

 

 

 

つづく。

 

 

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171 - 私のコト~私のソープ嬢時代の赤裸々自叙伝~

 

 

はじめから読みたい方はこちら↓

はじめに。 - 私のコト